冷たい約束
グランドラインに入ってもうどれくらいになるだろう。
5月上旬と言えば、イーストブルーでは新緑が目に鮮やかな清々しい頃だけれど、
そんな季節の移ろいを心に留める感覚は、気まぐれな天候に支配されるこの海を渡るには不要だ。
夏島が近いらしく、見上げた空には数日前から真夏を思わせる太陽が燦燦と輝いていた。
船室から「暑いよ〜」と、可哀相に毛皮の体を持て余したチョッパーがひーひー唸っている。
「もう少しでこの海域を抜けると思うから、それまで頑張ってね、チョッパー」
そう声をかけて、私は手元の書きかけの海図に目を戻した。
日差しは確かに強いが、デッキに立てたパラソルは充分日よけとしての役目を果たしてくれていたし、
じんわりと湧く汗を拭うように吹き去る潮風を肌に感じながら、
こうしてぼんやり広げた海図を眺めているのもまた気持ちいいもので、
ペンを片手にしたまま、私はもう随分と長いことこうしている。
カランと涼やかな音を立て、絶妙のタイミングで目の前にグラスが現れた。
「お疲れでしょう、ナミさん? 冷たいお茶をどうぞ」
太陽の光に透ける金糸の下で、青い瞳が笑っている。
私もちょうど飲み物をくれないかと声をかけようとしていたところだった。
そんな気配を察知したのだろう、いつもながら彼の細やかな気遣いに感心する。
口にした琥珀色のアイスティーからはほんのりフルーツの香りがした。
どこかほっとした気分を味わいながら、
相変わらず女性好みの小洒落たことをする彼に、思わず笑みが零れる。
「お口に合ったようで何よりですv」
私の気分が上向いたのを感じ取ったサンジくんは満足げに微笑むと、
続いて、もう一つのパラソルの下にいるロビンにも優雅な姿勢でグラスを運びに行った。
胸の前に手を当てた大袈裟なほど恭しい態度からして、
きっとまたいっぱいの砂糖で飾られた甘い言葉をロビンに告げているらしい。
残念ながら上手くあしらわれてしまったようだけれど。
くすくすと楽しそうに笑うロビンと対照的にがっくり首をたれたサンジくんは、
それでも持ち前の立ち直りの早さを発揮して、
ぐんと身を起こすと振り向きざま
「野郎ども、お茶だー!」
打って変わってドスの効いた声で男連中を呼んだ。
その声に誘われて、わらわらと湧いて出てきたのは船長以下4名の男たち。
うきうきとあるいはむっつりとあるいはぐったりと、各自よく冷えたグラスを受け取って、
またそれぞれの場所へ散っていく。
そんないつもの光景を見送って再び海図に戻ろうとした目がふと止まってしまったのは、
皆がいなくなったのを見計らったかのように、
「ちょっとこっち来い、ルフィ」
そう囁きながら右腕をルフィの首に回し、
その体を抱え込むようにして物陰に引き込んだサンジくんの動きが目に入ったから。
こそこそとしたやり取りに、私はついつい聴覚に全神経を集中させて聞き耳を立てていた。
狭い物陰で向かい合い、サンジくんはルフィに思いっきり顔を寄せる。
「なあルフィ、おまえ今日は何が食いたい?」
「ん〜、肉?」
予想はしていたが、あっさり一言で片付けられて聞いているこっちの方がずっこけてしまった。
サンジくんも薄々わかっていたようで、小さく溜息をついて、それでも今日は更に粘る。
「・・・じゃなくて、今日はおまえの誕生日だろ?
同じ肉にしてもちっとは手の込んだもんを作ってやるってんだよ」
「そうか。う〜ん、じゃあたくさんの肉!」
「・・・・・・あァ了解、たくさんの肉ね・・・」
諦めきった遠い目をした頷きに、吹き出したくなるのを必死にこらえた。
そう、今日はルフィの誕生日。
それにしても可哀相なサンジくん・・・
哀れな彼に心からの同情を寄せつつ、私は更に耳をそばだてて2人の様子を窺った。
「あとな、このお茶が美味かったから、これもっとくれ。もちろん冷たいやつ」
「へいへい、それじゃあちっと協力してもらおうか」
「へ?」
「いつものように『カラダ』で払ってもらうぜ、船長」
にやりと笑うサンジくんに、げっとルフィが身を引いた。
だが逃がしてもらえるはずもなく、しっかり首根っこを?まれたままルフィはずるずると引きづられていく。
「お〜いサンジぃ・・・」
小さくなっていくルフィの哀れな声。
「あらら」
くすりと笑って私は手にしたグラスを揺らした。小さくなった氷がカランと鳴った。
水滴をまとわりつかせたグラスを透かし見ながら、私はその冷たい感触を楽しんだ。
周りはこんなに暑いのに、手の中には今氷点下の世界がある。
こんなこと少し前までの航海では考えもつかなかっただろう。
飲みたいときにさっと出てくる冷たい飲み物。
グラスに入れられた氷。
さすがに大航海時代だ。
簡易で性能のいい濾過器と、発電機能を兼ね備えた海水の汲み上げポンプの発明により、
航海は飛躍的に快適なものとなった。
もちろん陸上とは比べるべくもないが、
それでも電灯や冷蔵庫が使えるというのは、(衣)食住揃った快適な毎日を提供してくれる。
ただし、もちろん電気も真水もタダでは手に入らない。
特にメリーのような小さい船の小さいポンプ小さい蓄電設備では、小まめにこっちが働く必要がある。
まして氷が欲しいなんて贅沢言うなら尚のこと。
つまりポンプを動かさなくてはいけないということだ。
(メリー号では自転車型のペダルをこいで、海水を汲み上げ同時に発電を兼ねる)。
そんなわけで、私たちクルー(もちろん男限定)は、
電気と水関係を管理するサンジくんからしばしば『カラダ払い』を強要されるのである。
最初聞いたときにはぎょっとした隠語的なその言葉の響きも、
最近ではもう誰も気に留めなくなった。
2人が下の甲板に消え、やがてガタガタと汲み上げポンプのペダルをこぐ賑やかな音が鳴り出した。
ふぇぇぇ〜というルフィの声のおまけつきで。
「おら、しっかりこげ、夜になっちまうぞ」
「何でオレがこぐんだよぉ、オレの誕生日なんだろ〜?」
どつくサンジくんとそれに反抗するルフィ、
そんな図式なのに、聞こえてくるどこか楽しそうな声音に誘われて、
気付けば私はグラスを片手にデッキチェアを立っていた。
足音を忍ばせるようにして階段を下り、2人のいるポンプ部屋をそっと覗く。
「うるっせえぞ、船長。ナミさんやロビンちゃんにこんなことさせられるか」
がんがんと響くサンジくんの声。
「じゃあウソップにやらせろ」
「アイツはすぐへばる」
「ゾロならいいじゃん」
「やなこった」
吐き捨てるように言ったサンジくんに、でしょうね、と思った。
彼が誕生日のルフィを祝うのに、ゾロの力を借りるのなんて絶対嫌に決まっている。
でもそんな気持ちに当のルフィは気付かずに、簡単にゾロの名前を口にする、
そんな微妙な関係なのだ、アイツらは。
「体力あり余ってる奴がひーひー言うな」
「んなこと言ったってあちぃんだもんよぉ」
確かにこの気温の下では、さすがに体力自慢のルフィでも参るようだ。
案の定、やがて犬のようにはあはあと舌を出し、ぐったりとポンプのハンドルにもたれかかってしまった。
「も〜やだよ、サンジぃ〜」
「・・・ったく、しょうがねえな。ちょっと待ってろ」
そのままルフィを残してキッチンに消えたサンジくんは、
やがて氷をいっぱい入れたボウルを手に戻ってきた。
山盛りの氷にルフィの目が、うおっと輝く。
「この蓄電器のメーターの目盛が一つあがったら、氷を一個食わせてやる。
だから頑張ってこげ、ルフィ」
「ホントか?約束したぞ、サンジ」
現金なものだ。
ルフィはたちまち元気になってものすごい勢いでペダルを漕ぎ出した。
それにサンジくんたら、早くしないとどんどん氷がとけるぜ、
なんて煽るものだから、その動きはどんどん加速される。
「ほら、一ついったぞ、サンジ」
「やりゃあできるじゃねえか、ほらよ」
「ん・・・」
サンジくんの指が一つ、氷をつまんでルフィの口に運ぶ。
それをルフィは目を閉じ、嬉しそうに受け入れた。
「食ったらさっさとやれ」
「オッケー」
また漕ぎ出す。数分としないうちに、約束の一目盛につく。
「サンジぃ」
「ほらよ」
約束を守れとねだる声に答える声、
どちらもがうきうきと嬉しそうなのは、気のせいだろうか?
またしなやかに指が動いて、氷を待ちわびるルフィの口元に運ぶ。
口元に一筋の滴を零しながら、目を閉じたルフィがそれを飲み込む。
「サンジ・・・もっと・・・」
「まだだ、約束だろ?」
甘えた声音に、サンジくんが優しく諭すように囁き返す。
ちぇといいつつ、また元気にペダルを踏む音。
メーターの針が一つ進むたびに繰り返される光景に、
いつの間にか私はすっかり魅入っていたらしい。
やだわ・・・・・・。
はっと気付き、慌てて身を起こしたが
何気なく見ていたはずの2人の姿に胸がドキドキして仕方がない。
なんてことない日常の光景だ。
「カラダ」払いを強要して否応無しに働かせているコックと、それにしぶしぶ従うお子様船長。
それなのにまるで覗き見をしているような、如何わしい気分を感じるのは何故だろう。
目を戻せば、まだ2人は続けている。
職業柄か、男にしては長く細いサンジくんの指先が空中を踊るように動いて、つかんだ氷をそっとルフィの口元に押し込む。
押し込みながら、口腔に消えた氷を追うようにルフィの口内にまで指を差込み、しばし後ゆっくりと唇を撫でるように辿りながら離れていく。
一方のルフィは嬉しそうに目を閉じて受け入れる。
氷もその後に差し込まれた指も、うっすらと開いた口は躊躇うことなく全てを取り込み、
その動きを拙い仕草で追いかける。
口内で解けた氷の滴が口の傍を伝わって落ちていくが、それに構いもしない。
どこか恍惚とした表情すら浮かべながら、ルフィの唇はサンジくんの指を含み、
離れていくのを惜しむように軽く震えた。
そしてまた。
「サンジぃ・・・」
「ほらよ、ルフィ・・・」
甘い囁きを交わし、2人はそっと見つめあう。
かと思えばそれに続くのは、よっしゃーという声と元気なペダルの音。
そしてほら行け行けと囃す声。
そのギャップにめまいを感じて、私は2・3歩よろめいてしまった。
ルフィの唇を辿るサンジくんの指先が目に焼きついてはなれず、
私は慌ててぶんぶんと頭を振る。
このままだと見ているこっちがおかしくなりそう。
そろそろゾロを呼びに行こう、と思った。
そのあとがどんな騒ぎになるかなんて責任もてないけど、ね。
= END =
subtitle・・・冷たい指先がその唇へと運ぶ約束
