パンのある風景 / のばす / 携帯電話



悪い夢でも見ていたのだろうか、あまり目覚めはよくなかった。
いくら倒してもキリがない、たくさんの敵に襲われた夢。
必死に刀を振り回しながら戦った記憶に重たい頭を抱えながら、ゾロはぼんやりと食卓についた。

起きた時からずっと身にまとわりつく、妙な違和感が拭えない。
何かが違う。
それが何とはっきり思い出せないもどかしさに、軽く頭を振りながらゾロは食卓の真ん中に置かれた籐のかごからパンを一つ取りあげた。
一口かじるとぷんとオレンジの香りが広がる。
甘い香りは、しかしそれすらも嗅ぎなれたものと違うと違和感の元になった。
何かが違う。今までの朝、今までの食卓と。
見慣れない花柄のテーブルクロス。
差し込む日の光の位置までも、何かが。

「おい」
クソコック。
いつも食事の仕度をしている金髪のニヤケ面を呼んだつもりだった。
なんだ、クソまりも。
そんな無愛想な返事と共に、蹴りの一つも飛んでくるのがいつものリズムだったのに
「なあに?」
穏やかな女の声に、ゾロの意識は完全に覚醒した。
驚いて見開いた目に、穏やかな朝食風景が飛び込んでくる。

籐のかごに入ったパン。
生野菜のサラダ。
熱々のベーコンエッグ。
コーヒーメーカーから漂ってくる香ばしい香り。
大きな窓から朝の日ざしが暖かくそそぎ、しっかりと地面についた建物は波で揺れることもない。

「ここは…どこだ…?」
思わず口にすれば、目の前の女がくすくすと笑う。
「どこって、あなたの家じゃないの」
いや違う、そう思った。
自分は海賊船に乗っていたはずだ。
元海賊狩りの三刀流使い。
最強の剣士の座を目指す、名前は…。

「いやね、まだ寝惚けているの?」
女がコーヒーをカップに注いでゾロの前に置く。
「オレの刀はどこだ…?それにオレは…海賊だろ…」
「すごい夢みてたのね」
感心したように女が頷いた。
「でもいい加減目を覚まさないと会社に遅れるわよ。
残念ながらあなたは海賊ではなくて、サラリーマンです。刀もうちにはありません」
聞きなれない単語に耳を疑った。
「おまえは…誰だ…」
もう、と女が肩をすくめる。
「朝から大丈夫なの?あたしはあなたのお・く・さ・ん。
そして、あっちのベッドにはコ・ド・モも寝てるわよ。覚えてる〜?」
短めに切りそろえた黒髪がふわりと揺れた。
どこかで見た記憶のある姿に、ゾロの意識は混乱する。

「オレはおまえを知ってるよな」
「当たり前でしょ、幼馴染でずっと一緒に剣道やってきたんだから」
「オレは世界一の剣豪に…」
「あはは、小さいころは確かにそう言っていたわよね」
ちゃんと覚えてるじゃないの、そう言ってゾロの妻だという女は笑った。
てきぱきと手際よく動き、彼女はゾロの仕度を整え玄関に送り出す。
「大丈夫?いつまでも寝惚けてちゃダメよ」
はいと渡される車のキーと携帯電話。
なんだろう、見慣れないはずのものなのに、慣れた動作でいつものポケットにそれらをしまう。
「…行ってくる…」
知らない景色、知らない世界だと思いながら、自然と体が「いつものように」行動している。
意識と体がちぐはぐなまま、ゾロは「家」を出た。


そのままゾロは「会社」に行って「仕事」をした。
書類をめくり、電話をかけ、見知らぬ相手と交渉をする。
仕事を終えると家に帰り、妻と子供に出迎えられた。
いまだにどこか釈然としない思いが顔に出ていたのだろう、
まだ夢の続きみてるの?と妻が笑った。

海賊だったことは夢だと妻は言う。
だがゾロにとっては、今自分が存在するこの世界の方こそが夢の中にいるようだ。
手に残る刀の感触、
体に受けた潮風の匂い、
酒と歌と陽気な笑い声、
そのどれにもこんなに鮮明な記憶があるのに、何故自分は陸の上で妻子と一緒の部屋で、 テレビを見ながら携帯のメールをチェックしているのだろう。
これが確かな現実だというのか。
今の自分をいまだに認められないもやもやとした思いが、ゾロを取り巻いていた。



しかしいくら抵抗したところで、現実の時間は流れていく。
ゾロにとっては世界はあやふやなまま、どんどんと時は過ぎていた。
常に違和感を持ちながらも、体はもちろんのこと意識も次第に慣れてくる。
会社に行く自分、
妻と子供と生活する自分、
繰り返される日常に、ゾロはそんな自分を次第に受け入れ、いつしか海賊であったことの方を異質なものとして認識し始めていた。
胸を斜めに横切る大きな傷痕は、最強の男と戦った証につけられたものではなく、数年前交通事故に遭ったときの傷なのだそうだ。
そういわれればそんな気もしてくる。


最初感じていた違和感は次第に薄らいできた。
幼馴染だという年上の妻は、気が強いがしっかり者の良くできた女だった。
「もうすぐ、あなたの誕生日ね」
カレンダーを見ながら妻が呟く。
「うんとご馳走つくってあげるから楽しみにしてて」
そんな明るい声を聞きながら、ふと頭を何かが過ぎっていく。


―――おう、てめぇもうすぐ誕生日だってな。その日ぐらいは好きなもん食わせてやる。感謝しろよ。
誕生日を迎える主賓に対して、どんだけ上から言ってるんだと思うほどふてぶてしい物言い。

―――誕生日だからって借金はチャラにしないわよ。
きっぱりと言い切り、そのくせどこか可笑しそうにくすくすと笑って揺れるオレンジ色の髪。

―――ゾロの誕生日がきたらオレうーんとお祝いしてやるからな。
茶色の毛に包まれた…あれは動物か?

―――じゃあオレ様が特製の仕掛けで祝ってやるか。
長い鼻の向こうで楽しそうな目がキラキラと輝いている。

―――楽しみね。
一言だけそう言って、ふわりと微笑んだ表情を珍しいと思う。


なんだろうこの記憶は、とゾロはそんな自分に当惑する。
自分の脳裏を横切るその顔と声。
それらはいつも自分の傍にあった気がする。


混乱する頭で必死に記憶を手繰り寄せ、浮かんでくるものを掴み取ろうと手を伸ばすのに、 それらはするりとゾロの手をすり抜けていってしまう。
それがひどくもどかしくて、ふと、もう追うのを止めようかと思った。
今の生活は平和で穏やかだ。
曖昧な記憶など今更追ってどうする、そんな心の奥底からの呼びかけに従いたくなる。
けれど、それだけは決して手放してはいけないと、もう一人の自分が懸命に留めていた。


気を紛らわせようと、ゾロは子供の眠るベッドに近づいた。
そういえば、ずっとまともに子供の相手をしていなかったかもしれない。
確か7ヶ月になったと、妻が言っていた。
ベッドを覗き込めば、その中で赤ん坊がにこにこと笑っている。
そっと抱き上げると、だぅだぅと喃語を喋りながら嬉しそうに手足をじたばたと動かした。
妻似の子供だ。
口元や目元、黒い髪もその黒い瞳も。
大きな丸い黒曜石のような瞳が真っ直ぐにゾロを見ている。
まだ世の悪も知らないその瞳は、何の汚れもなくどこまでも澄んでいた。

ああ、自分は前にもこんな瞳にこんなふうに見つめられていたのだ、と思った。
“ゾロ”
黒い瞳が揺れて自分を呼んでいる。
誰だ。
知っている。自分はその瞳の持ち主を知っている。


忘れるわけがない。
何故なら。


―――いつまでもオレたちはこの船で一緒に誕生日を祝うぞ、未来の大剣豪
―――了解、海賊王
こつんと拳を重ねて、そう誓いあった相手なのだから。




「ルフィ!!!」




思い出した。
赤ん坊をベッドに下ろすと、ゾロはドアを開けて外に飛び出した。
後ろで「妻」が自分を呼んだが、もうそれに応えることはできなかった。



すでに日が暮れて久しい夜の街をゾロはひたすらに走る。
どこに行けばいいのかわからない。
だが、少しでもいい、海に近づこうと思った。
確か少し行ったところに、海の見える公園があったはずだ。
その記憶を辿ってゾロは走り続けた。



かなりの距離を走ったので、さすがに息が切れて上手く整わない。
はあはあと肩を揺すりながら見回せば、辺りはすで真っ暗でこの公園には珍しく他に人影はない。
高台にあるここからは、海が遠くに見える。
闇に点在するいくつかの光の点は、行き来する船の明かりだろう。
だが違う。
自分の乗りたい船はそのどれでもないのだとゾロは思う。
もっと広くて暗い海。
夜になれば何の明かりもなく、月と星だけを頼りの航海。
けれど、その前途はいつでも眩しいほどの光に満ちていた。
それがゾロの選んだ船だ。



ゾロは駆け出すと、手すりから身を乗り出すようにして手を伸ばす。
届け、届けと必死に願う。
自分の居場所はここではない。
陽気な連中がいる羊頭の船。
大きな空と大きな海に包まれた、あいつらと一緒のあの場所だ。


「ルフィ!!!」
思いの限りに叫んだ。




「遅ェよ」
突然聞き慣れた声が頭上から降ってきた。
驚いて見上げれば、すぐそばの大きな木の枝に腰かけたルフィがにっと笑ってこちらを見ている。
「ルフィ…」
「やっと思い出したかよ」
ぶらぶらと足を揺らしながら、怒ったように呟いた。
「遅ェよ、ゾロ…」
「それはこっちのセリフだ」
今度はゾロがむっとして答えた。
「てめぇ、今頃迎えに来やがって…」
「ふーん、結構馴染んでたじゃんか。あなたーとかパパーとか言われてさ」
「うるせぇ」

「帰るのか?」
ふっとルフィが真顔になって問いかける。
「当たり前だ」
ゾロは即座に答えた。
「あっちは結構キツイぞ。でも、ここにいたらそれなりに平和に生きていける」
「だがおまえらがいない」
またゾロは即座に答えた。
「最強になる前に死んじまうかもしれねえ」
「そうなったら仕方ねえ」
あっさりと言い切ったその言葉にルフィが苦笑する。
「妻と息子がいるくせに」
「何度も言わせるな。ここにはおまえと、そしてみんながいねぇんだよ、ルフィ」


一緒に未来を目指す者がいない。
それだけで、もうそこはゾロのいるべき世界ではない。


「オレは誰だ」
麦わらの下の瞳が、真っ直ぐに問いかけてくる。
だからゾロも真っ直ぐその瞳を見返して答えた。
「モンキー・D・ルフィ。未来の海賊王だ」

「…残念ながら正解だ。戻るぞ、馬鹿ゾロ」
ルフィが手を差し出す。

「早く来い!」
ルフィが呼ぶ。
ゾロは手を伸ばす。
ルフィに向かって、いっぱいに手を伸ばす。
どこまでも伸ばす。
ルフィに届くまで。

指先が触れて、そして手のひらが触れた。
「ゾロ」
「ルフィ!」
ぐっと握り合った手に引き上げられて、ゾロの目の前に懐かしい姿が現れる。
「ルフィ!」
その瞬間、そのまま2人で浮上する感覚にゾロの意識は包まれて消えた。





目が覚めた。
開いた目には、見慣れた光景が映っている。
ゆっくりと見回せば、
「ゾロ…」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしたチョッパーがそこにいた。
「どうした、チョッパー」
手を伸ばして、その頭にちょこんと乗っている帽子をそっと撫でる。
船が揺れている。船室に日は入らない。
いつもの日常にほっとする。
「ゾロ…よかった…」
うえうえとチョッパーは泣きじゃくる。
やっと聞き取った言葉によると、ゾロは敵の海賊たちとの戦闘中に頭を強打し、そのままずっと眠り続けていたらしい。
「オレにももう…どうしようもなくって…みんな…ものすごく心配してたんだ…。ルフィなんて…全然そばを離れなくて…」
「ああ」
ゾロの体に突っ伏して眠っているルフィの重みとその体温を、さっきからずっと感じている。

「ルフィもいくら呼んでもちっとも目を覚まさなくて…オレこのままルフィまで起きないんじゃないかって心配で…」
えーんと泣き出しながら、それでもチョッパーは涙をこすって気丈に笑った。
「オレ、みんなに知らせてくるからな。まだ動いちゃダメだぞ、じっとしてろよ、ゾロ」
そう言って、ととと…と足音を響かせながら部屋の外に駆け出していった。
やがて、どやどやとこの部屋に見慣れた顔が押し寄せてくることだろう。


「おい、ルフィ…」
このまま眠らせといてやりたいとも思ったが、無性にその顔が見たくなった。
ゾロはそっとルフィを揺する。
「お…ゾロ…、やっと起きたな」
「迎えに来てくれてありがとよ」
「ああ」
当然だと言いたげに笑った顔に、ようやく自分のあるべき場所に帰ってきたことを実感する。

「間に合ったな」
「あ?」
「おまえの誕生日」
眠っている間に、もう当日を迎えていたらしい。

「これでやっと、サンジの気合の入ったメシが食える」
「結局てめえはそれかよ」
「当たり前だ、肉食うぞー、肉!」
しっくりと馴染むやりとりに、心が解れていく。
そして、部屋の外からはばたばたと駆けてくるいくつもの足音と、自分の名を呼ぶ歓喜の声が聞こえてきた。


「ルフィ…」
「おかえり、ゾロ」
にっとルフィが笑う。
これで充分だ。
今日はきっと最高の誕生日になるだろうとゾロは思った。


< 終 >




ゾロに妻がいるシチュエーションは私自身も何となく許せないものがありますが(心狭いな…)、
意識不明の間に彷徨ったパラレル世界でのことというわけで、お許しいただけたら何よりです。


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