赤い炎



赤い、赤い炎。
何もかも燃えつくす恐ろしい業火。私の生まれた島ごと燃えていく。大切な人が、私の大切な人があそこにまだいるのに。 必死で助けを求めようと周りを見渡しても、私の横には誰もいない。ただひとり広い海に小舟を浮かべて、私はなすすべもなくただ見ている。誰も私の手をとってはくれない。ただひとり。この広い海に私はただひとり。怖くて寂しくて悲しくて、あとからあとから涙が頬を流れ、声の限りに泣き叫ぶ。
でも私は小舟をこぐ手を休めない。私は島の燃えつくされる様を見つめながら、そして泣きながら小舟をこぐ。 涙で前が霞んでも、決して赤い炎だけは霞むことはない。
やがて島影さえ見えなくなっても、あの火はいつまでも赤く赤く空を焦がして…




ガバッと跳ね起きたロビンは、ハッハッと荒い息を吐いた。
何度か深呼吸をくり返し、呼吸を整える。汗で背中にシャツがベッタリとはりついていた。
チラリと横を見ると、規則正しい寝息と共に暖かいオレンジ色の髪の毛が薄暗がりにボンヤリと浮かんでいるのが見えた。

…大丈夫。
ここは船の上。
ここは麦わらのルフィの海賊船の上。
隣に寝ているのはこの船の航海士の少女。
そして、私は今、麦わらの一味の一人。
この船はグランドラインを航海中で、船長のルフィは私を仲間に入れた。

そう。

そうだ。

そこまで思い返し、ロビンはやっと息がつける気がした。

それでも喉は張り付いたままで、汗に濡れた衣服も体にまとわりついて、とても気持ちが悪かった。
そのまま、また横になる気が失せたロビンは、そっと足をベッドからおろし、物音を立てないよう気を配りながら、女部屋の階段を上った。

幼い日の悪夢をみるのは、もう何度目だろう。まだ少し息が苦しい。
だけど悲しいことに、こんな時、どんな風にすれば落ち着くのかもロビンにはよく分かっていた。慣れたものだ。少し冷たい夜気に触れて火照りを取り、冷たい水を喉に流し込めば良い。その後、気に入っている本を読みふければきっと朝になる。また、朝日が昇る。きっと大丈夫。
ロビンは静かにため息を吐いて、手を伸ばし、キッチンへ続く扉を開いた。

ドアを開けると、目の前に赤い何かか映り、ロビンの体は一瞬硬く緊張した。
よくよく見ると、それは船長の上着の色で、船長はキッチンでなにやら盗み食いの最中のようだった。

ロビンも驚いたが、船長の驚き方はそれはもういとも哀れなほどで、飛び上がって振り返ると同時に神業並みの早さで土下座し、 「ごごごごぺんぱばい」 と涙ながらに訴えていた。

「…盗み食いはあまりいい習慣じゃないんじゃない?」

ロビンはそんな船長の頭のてっぺんの麦わら帽子を見つめながら、少し意地悪を口にする。
こちらも少なからず驚かされたので、ちょっとだけいじめてしまいたくなったのだ。
ロビンの声を聞いたルフィは、ふと顔を上げた。

「…なんだロビンかぁ…。サンジかと思った」

船長はあからさまに安心して、ロビンに向かってニタッと笑って見せた。
その笑顔の口の中にはなにやら食べ物らしきモノがぎっしりと詰まっている。ロビンは一瞬その口の中の食べ物らしきモノの凄まじい量に度肝を抜かれたが、すぐに立ち直った。

「そんなに食べると、明日の朝、コックさんにしぼられるわよ」

ロビンはクスリと笑いながら、テーブルまで歩いて椅子を引き寄せると、ガタンと腰掛けた。

「んん?お前も何か腹が減ったのか?」

「いいえ。喉が渇いたの」

「そっか。飲み物か。水でもくんでやろうか」

「ええ、お願い」

コップコップ…とブツブツ言いながらルフィは食器棚の方へと移動し、キョロキョロと棚の中を見渡す。
だが、水を飲むにしてもいつも自分でコップに注いで飲んだことなどないので、どこに何があるのかいまいち分からない。食べ物の場所なら分かるんだけどなーとルフィは相変わらず小さい声でブツブツと独り言を呟く。

「コップなら引き出しの2番目にあるわよ」

「おお、サンキュー」

ルフィはいそいそとコップを取り出し、水をくむ。
コップの中に入るより、外に飛び出す水の量の方が多い。
薄く笑いながらその様子を見ていたロビンだが、あえて何も言わず、船長の仕事を見守る。

「ほら」

「ありがとう」

差し出されたコップを受け取ると、ロビンは一口飲んだ。
生ぬるい液体がじわりと喉の奥に染み込む。
コトリとコップをテーブルに置いたロビンは、チラリとルフィを見る。
暗いキッチンにそれでも赤いシャツははっきりと浮かび上がっていた。
…火の色の赤は嫌い。
ロビンは目を閉じた。今は出来るだけその色を目の中に入れたくなかった。

「ねえ。どうして赤い色の服をいつも着ているの?」

ロビンはどうでもいいような口ぶりで、なぜだか自分でもおかしくなるくらい必死に聞いた。

「お気に入りだからだ」

胸を張ってルフィが答える。

「どうしてその色が好きなの?」

「どうしてだろうなあ…シャンクスの色だからかなあ?」

ふん反り返っていたルフィは、はたと腕を組み、首を傾げて考えながらそう答える。
そう…。小さく呟いてロビンは静かに目を伏せた。




真っ赤に空を染め上げて燃えていく島。
私はそれを見ながら、一人船を漕いだ。
朽ち果てていく島。真っ赤な業火に燃えつきて、大切な人を、大切な、何もかもを燃やされていくのを、ずっと見つめながら。
ついにはそれに耐えられなくて、泣きながら目を閉じても瞼の裏は赤くて、私はどうしても赤から逃れられなかった。
いつしか島影はくすぶる煙に見えなくなり、やがては地平線の向こうに一本の赤い筋となるまで、私はそれを見続けた。




「私は赤が嫌い」

「んん?」

ルフィは大きく一度目をしばたいてから、ロビンを見る。ロビンはそっと顔を上げて、もう一度はっきりと言った。

「火の色は嫌いなの」

「おめェ、火が怖いのか」

「いいえ。赤が嫌いなのよ」

ふむ、と鼻から抜けるような声を出したルフィはそれ以上ロビンに対して何も言わなかった。ただ、大きな目をますます見開いて、じっとロビンを見ていた。

「貴方は嫌いなモノはないの?例えば貴方の命を奪う事になりかねない海とか」

「オレは、海は好きだぞ」

そういって笑うルフィが眩しくてロビンは再び目を伏せた。

「泳げないのに海が好きなのね」

自分の命を奪いかねない場所が…と小さな声で付け足した。

「オレが泳げねェのは海のせいじゃねェからな」

まっすぐにロビンを見たまま、ルフィは言った。
ロビンは顔を上げられずに、テーブルの上に置いたコップをじっと見ていた。

…分からない。
だって海は貴方の命を奪うかもしれないじゃない。貴方にとってそれは悪じゃないの。貴方にとってそれは凶器と同じじゃないの。

「泳げねェのはオレの事情で、海はただそこに在るだけだからな」

ルフィの声が頭上に降ってきた。ロビンはその言葉を聞いて不意に泣きたくなった。
”ただそこに在るだけ”。
それは全てそうだ。
すべてのものは善も悪もなくただそこにあるだけで、それを悪だ、正義だとわめき散らすのはいつも人間だけだ。
炎もまたしかり。人を焼き尽くす程の炎は確かに恐ろしいが、暗闇を照らし体を温めてくれるのもまた炎なのだ。
本当は分かってはいる。分かっているのだ。
私はただ。たぶん私はただ。

…そこにあるだけで罪はない?

ロビンは危うくそれを口に出してしまいそうになっている事に気がついて、慌ててきつく唇を噛んだ。




どのくらい時間が経ったのか。ふと何かが揺らいだ気がして、ロビンはそっと顔を上げてみたが、すでにそこにルフィの姿はなかった。
後ろを振り返ると、ちょうどルフィがキッチンを出るところだった。
暗闇に赤い色が浮かび上がっている。
赤い背中は振り返ることなく、「夜中に水飲んだあとはちゃんとションベンして寝ろよ」と言い、そのまま扉の向こうへと消えてしまった。

一人になったロビンは、そっと瞼を閉じる。
そこに赤い色が浮かぶ。


瞼の裏でユラユラ揺らめくその赤は、次第にぼんやりとした人の形をつくっていく。


…大丈夫。
炎はきっと暗闇を照らしてくれる。
大丈夫だ。
あの悪夢のあとでも、私はきっとまた眠れる。
今度みる炎の夢は、たぶん暖かい明かりの夢だ。




<了>



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