Bitter spnach
大学に入って一人暮らしを始め、勉強やバイトで身辺が慌しくなってくると不便を感じるのはやはり食事のことだった。
ゾロにとって記憶の中の両親はいつも忙しく、物心ついた頃から一人で食事を作って食べているのが当然のようになっていたから、
自炊に関して抵抗はないしむしろそこらの女より上手いかもしれないとすら思う。
だが講義や実習で遅くなって帰宅した後に、改めて自分一人分の食事を仕度するほどマメでもないのだ。
だから、アパートの近くでそのこじんまりとした定食屋に出くわしたことは本当に運が良かったと思う。
「風車」という名の看板がひっそり掲げられた、たいして広くもない店だ。
住宅街の一角にすらりと溶け込んでいるので、よほど注意しないと通り過ぎてしまうだろう。
自宅を兼用しているためそこここに生活感が見え隠れしているが、だからこそその空間はとても温かく、
がらがらと扉を開けるといつもデザートに用意されるみかんの香りがぷんと漂ってきた。
こちらの姿を見るなりカウンターの向こうから「お、来たね」と陽気に声をかけてくるのは、女主人のベルメール。
威勢良く刈り上げた髪がトレードマークの気風のいい粋な女将だった。
この店を知って以来、ゾロは週の半分以上を世話になっている。
おかげですっかり顔なじみになってしまったが、いつもカウンターの一番左端に座って黙々とその日の日替わり定食を食べるだけで、
他の客たちのようにベルメールや二人の看板娘、ノジコにナミ、と会話を弾ませることはほとんどなかった。
最近知ったのだが、まるで美人三姉妹だと形容される若々しいベルメール、そしてノジコにナミが切り盛りするその店は、
男子学生たちの間で密かな人気があるらしい。彼女ら目当てに訪れる連中もそこそこいるようだが、
中途半端に浮ついた気分で来ようものならたちどころに追い返されて二度と出入り禁止にされてしまうオチが待っている。なかなかに厳しい女共であった。
もちろんゾロは彼女たちには全く関心がない。
むしろ常連になる前の段階から「もっと野菜を取れ」だの「昨日は肉だったから今日は魚を食え」だの、
三人揃って客であるゾロの食生活にまで口を出してくる喧しさに閉口していた。
それでも彼女たちが口は悪いものの、そこにはこちらを気遣う優しさがにじみ出ているのはよく分かったし、
ゾロが実習などですっかり遅くなりまだ開いてるかと気にしながら訪れた日も店の明かりは当然のように点いていた。
顔を出せばどんなに遅くなっても嫌な顔一つせず却ってこちらを労いながら出迎えてくれる。
バイトの給料日前で明らかに苦しいときはさりげなく大盛りの上に、余ったからと一品余計に小皿がついていたりする。
彼女たちがどうのというより、この店が醸すそんなさりげない温かさが、(もちろん口にはすることはないが)ゾロは気に入っていたのだった。
「いらっしゃい、最近どうだい?学校も忙しいんじゃないの」
「ああ」
出入りするようになって数ヶ月、相変わらず愛想の無い会話しか交わせないゾロだが、ベルメールは楽しそうにゾロへの料理を用意する。
ゾロの食べ方が好きなのだといつだったか言っていた。
「今時そんだけちゃんと箸を持って、綺麗に食べてくれるヤツは珍しいよ。よっぽどご両親にしっかり躾けられたんだね」
「いや、これは・・・」
仕事で留守がちな親と一緒に食事をしたことはほとんどなかった。
小さい頃は通っていた剣道場の師匠の家でよく食事をご馳走になっていたのだ。
師匠のコウシロウは優しいが作法には厳しい人だったから、おそらくそこで身に付いたものだろう。
師匠とその奥さんと娘と温かな料理の並べられた食卓を囲んで・・・。
懐かしい風景は、しかし思い出すとぎゅっと胸を締め付けてくる。
「どうした?」
ベルメールの心配そうな声にゾロははっと顔を上げた。
「気分でも悪いのかい?」
「いや、別に・・・」
「あんた、今ちょっと苦しそうだったからさ。なんともないならいいんだけどね」
「ああ、悪い・・・」
ベルメールに詫びてゾロは箸を取る。
今日は和食だった。カレイの煮つけと野菜の炊き合わせ、おひたし、季節の具材が入った味噌汁、そしてこの店の定番デザートのみかんが一個。
変わったところのないどこにでもある献立だが、だからこそそんな「普通さ」が嬉しかった。
と。
「うめぇーっ!」
語尾にハートマークでも乱舞させてそうな叫び声が、ゾロの耳に飛び込んできた。
「おばちゃん、おかわり!」
はいはいと苦笑したベルメールがゾロから離れて、その声の主にご飯をよそいに行く。
もちろん渡す際に、おばちゃん呼ばわりの礼のゲンコツを一発お見舞いすることも忘れずに。
痛ぇっ!!と頭を抱えながら、それはそれで嬉しそうに受け取ったどんぶり飯をかきこむ姿がなんだか可笑しい。
二、三日前から見かける少年だ。カウンターの左端に座るゾロに対していつも右端を陣取っている。
黒い髪と大きな黒い眼が印象的で、体は細っこいが呆れるほどよく食うし、美味いだの肉くれだのとにかく賑やかなのですっかり見覚えてしまった。
今は店も空いているので、ナミが少年の隣に座ってあれこれと世話を焼いている。
男には目もくれないキツイ性格の彼女が妙に優しく接しているところを見ると、この少年はかなりお気に入りらしい。
ベルメールが離れたこともあって一人黙々と飯を口に運んでいたゾロだが、いつのまにか少年とナミの会話に耳をそばだてていた。
名前はルフィ、こんな子供を遅くまでほっぽって定食屋で飯を食わすなんてどんな親かと思ったが、年は17、どうやら高校生であるらしい(驚いた)。
ベルメールの知り合いの息子で、親が不在なので最近はいつもここで飯を食わせてもらっている、そんな情報が断片的に二人の会話から伝わってきた。
ルフィはとにかく元気な少年だった。
本当に食べることが好きなのだろう。よく食い、よく喋り、よく笑う、楽しそうなその姿につい見入ってしまう。
「気になるかい?」
「は?」
いつの間にか戻ってきたベルメールが、そっと顔を寄せて囁いてきた。
「ルフィだよ。あんたずっとあの子のこと見てるだろ」
「見てねえよ!」
「ふふ、せっかくだから離れてないで一緒に食べたらいいじゃないか。ルフィ、こっちおいで」
ん?とルフィがこれでもかと言わんばかりに、ぱんぱんに食べ物を頬張った顔をこちらに向けた。
「この兄さんがこっちで一緒に食べようってさ」
「あら愛想無しのくせに珍しい。せっかくだから行きましょ、ルフィ」
「え、いいのか!」
「おい!」
ゾロの抗議を聞きいれる者は誰もいなかった。
ぱあっと嬉しそうに顔を輝かせ、ルフィが自分の茶碗を持ってゾロの隣に滑り込むようにしてやってくる。
「オレ、前からゾロと一緒にメシ食いたかったんだ〜」
いきなり呼び捨てのタメ口かよ、とゾロは苦笑した。しかもすでに名前まで知られている。
「ゾロって魚でも何でも綺麗に食うだろ、初めて見たときからすごいなぁって思ってたんだ。なぁなぁ、どうしたらあんな上手にできるんだ?」
その馴れ馴れしさは驚くのを通り越して呆れてしまうほどだが、ルフィのキャラクターによるのだろう、それはすっと自然にゾロの中にしみこんできて、
不思議と不快な感じはしなかった。
だが一応釘はさしておこうと思う。
「おまえなぁ」
「ルフィだ」
「ルフィ、いきなり口きいてそれか?少なくともオレはおまえより年上なんだがな」
うーんとルフィはしばし首を捻って考える。
「じゃあこれからも一緒にメシを食ってください。これでいいか、ゾロ?」
結局呼び捨ては変わらないらしい。おかしなヤツだと思わず吹き出しながら、ああと返事をしてやった。
「ゾロが笑ってるわよ」
「そうだね・・・」
カウンターの中では、母子がこっそりそんな会話を交わし笑いあっていた。
もともと頻繁に通っていたが、ルフィと一緒に食べる約束をして以来「風車」を訪れるのがゾロの日課になった。
とはいえ、座る位置が隣になったというだけでルフィと楽しく会話を弾ませる・・・というほどでもない。横でルフィがあれこれと喋り続けるのをただ黙って聞いているだけだ。
だが、ただそれだけのことなのにほっと心が和む。誰かと一緒に食事をするのはこんなに穏やかな気分になるものだったかと、久々に思い出した気がする。
そんなある日、
「なあ、ゾロはほうれん草がキライなのか?」
不意にルフィに尋ねられて、おひたしをつついていたゾロは困惑した。
「だってこれ食うときさ、いつもここのとこに少しだけしわが寄るだろ?」
と眉間を指さして言う。
恐らくそこには何の含みもない。なんといってもルフィだ、ただ単に疑問に思ったことを口にしただけだろう。
だが、そんな指摘にゾロは微かに眉を顰めた。
ほうれん草と共に浮かび上がる過去の苦い記憶。
こんなとき自分の中を走り抜ける動揺は今まで誰も見抜いたことがなかったのに。
ゾロ自身かなり気をつけて周囲に分からないよう隠し続けていたのに。
しかし、この何ごとにも無頓着そうなくせに、妙なところで目聡い少年はそんなゾロを見抜いてしまった。
「どうしてわかった」
え?とルフィは不思議そうな顔をする。
「そんなのゾロ見てりゃわかるじゃん」
ルフィはどれだけ自分のことを見てくれていたのだろうか・・・。その一途さが嬉しくもあり、少し苦しい。
「どうしてキライなんだ?こんなに美味いのに」
純粋な疑問がゾロをじわりと追い詰める。
そうだ、ベルメールの出すおひたしは確かに美味い。
ほうれん草の茹で加減もちょうどいいし、鰹節と出汁醤油の香りがふんわりと鼻腔をくすぐる。
けれど。
「ガキのころ大嫌いだったんだよ・・・」
ルフィの黒い瞳に見つめられて、ゾロの心はこれ以上もちきれない。
今までずっと封印していた思いが、心の壁を破って飛び出しそうだった。
* * *
まだ幼い子供が一人で夕食をとるのを見かねてか、剣道の師匠はしばしばゾロを家に招いてくれた。
道場仲間でライバルで幼馴染にあたる師匠の娘、くいなと言う名の年上の少女とも一緒に食卓を囲んだものだ。
奥さんが作ってくれた料理はどれも美味かったが、子供のこと、ゾロにはほうれん草のおひたしだけがどうも美味しく感じられなかった。
あまり食べる気にならなくて手をつけずにいたら、くいなが見兼ねてそんなゾロを叱った。
食べろ、食べないの押し問答。
あまりに煩いものだから、つい意地になって絶対食うものかと器をぐいと押しやったら、その態度に彼女がついに怒り出した。
所詮彼女も子供だったのだから仕方ない。
激しい喧嘩になって、ゾロの上に馬乗りになった彼女はほうれん草を無理矢理ゾロの口に押し込んできた。
吐き出すこともできず、仄かに苦いそれをぐっと飲み込まされる。
もちろんすぐさま二人してコウシロウにいやってほど叱られたのだが、どうにもゾロは悔しくてたまらない。
二度とほうれん草なんか食うものか。くいなの馬鹿野郎。
腹の虫が収まらずそう心に誓って帰宅した直後だった。
彼女が階段から落ちて亡くなったと言う知らせを受けたのは。
さっきまであんなに元気だったのに。
すごい勢いでゾロと喧嘩していたのに。
一緒に怒られて、もう知らんとお互い、つんとそっぽを向き合った数時間後、
あっという間に彼女はこの世を去ってしまった。
ゾロはまだ、彼女に何も言っていなかったのに。
くいなが亡くなってからもゾロは変わらず師匠の下で剣道を学んだし、師匠は変わらずゾロを食事に招いてくれた。
だが以来、師匠の家の食卓におひたしが上ることはなかった。
あれからゾロもずいぶん年を重ね、好き嫌いをするほどの子供でもなくなった。
ほうれん草はもう不味くはない。嫌いでもない。
だが、口にするといつも最後に喧嘩した彼女の姿が蘇る苦い物となった。
* * *
「そっか」
珍しく長く語ったゾロの話が終わると、ルフィはほっと息を吐いた。
「結局ゾロはほうれん草が食えるようになったんだな・・・」
どこか見当違いに思えるセリフを口にして、ルフィは小さく微笑む。
「それに、今でもそれだけ強い思いを残してくれる人がゾロにはいたんだ、本当によかったな・・・」
同情でもなくその場の慰めでもなく、心底そう思ってくれている目がじっとゾロに向けられている。
「ああ・・・」
だから素直に頷いた。ルフィに対して意地を張るつもりはなかったから。
「な、ゾロ。これからもオレと一緒に食おう。これからもずっとずっと一緒にさ」
ああまただ、と思った。またルフィの心がすっとゾロの中にしみこんでくる。
「ルフィはね、あたしの友人の息子なんだ」
ベルメールが口を開いた。
「長いこと会ってなかったけど、この間亡くなったって知らせを受けてね・・・」
彼女には珍しく一語一語区切るようにゆっくりと話す。
「事故で一瞬だったんだってさ。一瞬でこの子は両親を亡くしたってわけだ。
遠縁の親戚しかいないそうで、これからどうするかって聞いたら一人で暮らすって言いだしてね・・・」
「だってオレもう高校生だし、あまりうちにはいないけど、一応兄ちゃんもいるし・・・」
「この子が一人で食べてる姿がどうしても想像できなくてさ、気が付いたらうちにおいでって誘ってたよ」
当時のことを思い出したのだろうか、ベルメールが苦笑した。
「食べるのが好きな子だと聞いていたんだけど、葬式の後でも一生懸命食べてたんだ。
よく噛んで、美味い美味いってそれこそ作った人が喜ぶようないい顔してさ・・・。
それ見てたらとても一人になんてさせらんなくなっちまってね・・・」
ねぇとノジコとナミもやってきて代わる代わるルフィの頭をなでていく。
よせよーと、むっとしながらも笑うルフィはどこまでも屈託なく明るい。
笑顔の向こうにそんな重さを抱えていることなど、考えもつかなかった。
「ルフィ・・・」
「ん?」
この少年に対する感情を、今はなんと呼んでいいのかわからない。
でも、
これからも傍にいよう、一緒に食べよう。
ルフィの笑顔をその横で見ていたいと、心からそう思う。
「これからは」
「なに?」
「これからはもっといろんなこと話せ」
「ゾロがそれを言うか」
ルフィがくっと吹き出した。
「おまえのことがもっと知りたい」
「オレもだよ、ゾロ」
そっと視線を重ねあう。
「とりあえずお互いの誕生日でも教えあったら?」
ノジコが提案した。
「それいいな。オレは5月5日、ゴールデンウィークだぞ」
「こどもの日なのね」
なんだからしいわ、とナミがくすくす笑う。
「で、ゾロは?」
「11月11日」
一瞬の沈黙の後、店内は騒然とした。
「ええっ、今日じゃないか!」
ベルメールが早くお言いとゾロを思い切りどつく。
「すげぇーゾロ、カッコいいー!!」
ルフィが心底感心したように叫び、それに皆がどこがだと突っ込み返す。
「あんた、そういうことはもっと早く言いなさい」
ナミもまたゾロを一発どきつながら、がちゃがちゃとそこらを手早く片付けだす。
「なんであんたらがそんなに慌ててるんだ?」
「うるさいねぇ、ちょっと待ってな、今誕生日の仕度するからさ」
全くもうと怒ってるのだか笑ってるのだか、
ベルメールたちは呆然とする主役をほったらかしにしたまま、手早く誕生祝の席を設けていく。
あははとルフィが楽しそうに笑い、つられてゾロも笑いがこみ上げてくる。
この店に出会い、ルフィに出会い、
こうしてゾロの空間は温かなぬくもりに包まれていく。
今日は最高の誕生日になりそうだった。
<終>
ブラウザバックでお戻りください