「終わったか?」
足音は立ててなかったはずだが気配を聡く感じ取ったのだろう、船首近くに立つルフィが首を巡らしてゾロを見た。
メリーのようにその上に乗ることはできなくなってしまったが、やはりルフィにとって船の行方が一番に見えるこの場所は特等席のようだ。
最近はよくライオンヘッドの根元に陣取って、飽くことなく眼前に遥かに広がる海原を見つめていた。
「ぁ?」
不意に問われて、いささか間の抜けた声を出してしまった。
「ったく、おまえもサンジもしょーがねェなぁ、新しい船壊すなよ?」
曖昧に頷いたゾロを見て、あははと笑うルフィの声も顔も、今日の空のように一点の曇りも無い。
広くなったと言っても同じ船の中、たった今そこでやらかしてきたサンジとの一悶着が気づかれてないはずはないのだが、
それでもなんとなく気まずくてゾロは「ああ」とだけ短く答えて頷いた。
「で、原因は何だよ?」
あまり他人のあれこれには首を突っ込まないルフィがこんなことを聞いてくるのは珍しい。
「どうした、ルフィ?」
逆にゾロが問う形になってしまったが、そのことを別段気にする風でもなく
「ロビンが絡んでるみたいだからさ」
と軽い口調でルフィは答えた。
無意識にだろうが、その辺の気の回しようはやはり船長だと思った。
+ + +
顔にかかる微かな水の感触で目が覚めた。
目を開ければ、高みにある空は雲ひとつ無い快晴。雨の気配はない。
耳に聞こえる穏やかな波音では飛沫が船べりを飛び越えてここまで飛んでくるはずも無く、
気のせいかと再び寝なおそうとしたゾロだが、そのまま風に乗って聞こえてきた歌声に気が留まった。
それは風の音にまぎれてしまいそうなくらい小さく…けれど綺麗な声だった。
ゾロが昼寝をしていた甲板の、少し先にロビンがいる。
彼女の足元には空いた木箱を利用してウソップが作ったプランターが並び、ゾロの知らない名前の花が咲いていた。
ロビンの手にした如雨露からぱらぱらと水が虹を作って零れ、その飛沫が歌声と共にゾロのところまで飛んできたのだと、頬を撫でながらゾロは一人納得した。
ロビンが口ずさんでいるのは、最近ブルックが聞かせてくれた西の海に伝わる古い歌だ。
故郷の調べは遠く離れた身にも感じ入るものがあったのだろう、ロビン自身は多く語らなかったがどこか嬉しそうな様子は誰が見ても明らかだったので、
ブルックは気を利かせて彼女の前でよくこの曲を弾いていた。
牧歌的な調べを口ずさみながら色とりどりの花に水をやる姿は、とても昔のロビンと同一とは思えない。ゾロは無言でしばしその背を見つめていた。
『あのなゾロ、この船に初めて乗ったとき、ロビンは「ガーデニングができそうね」ってすごく嬉しそうに笑ってたんだぞ』
当時そこにはいなかったゾロに、チョッパーが楽しそうに話してくれたのを思い出す。
仮にも海賊を名乗る…しかも20年以上も闇の世界で生きてきた女が今さら花を育てようとは、陸で安寧と暮らす女学生だの普通の主婦だのじゃあるまいし。
そう思って呆れもしたのだが口にしなかったのは
「あァ、てめェなにじろじろとロビンちゃんのこと見てるんだ。失礼だろうが」
運んできた紅茶のトレイを手に掲げたまま、足を振り下ろしてきた女尊男卑精神のサンジに遠慮したのでも、
「ゾロー、そんな怖い目でロビンのこと見たら可哀相だぞー」
足元で心配そうに見上げてきたチョッパーに気を遣ったのでもない。
「まぁ、水かかってしまったのね…」
ゾロの緑の髪についた水滴を、ごめんなさい…と詫びながら手で払う彼女が纏う空気はとても穏やかで、そんな彼女をそのままに受け入れることができたからだ。
「いや、気にすんな」
「そうそう、気にすることありませんよ、ロビンちゃん。むしろ少しくらい水かけてやった方がそこの怠惰なマリモも頑張って成長すんじゃないですか」
せっかく収まりかけたところをわざわざ混ぜっかえしてくるサンジが鬱陶しいので睨み返せば、
「…んだよ、やるか緑頭」
サンジから怒りのオーラが立ち上るのは、すでにこの一味には馴染みの光景だ。
にらみ合う体勢の中でサンジは、持っていたトレイをとんとロビンに手渡した。
「すみません、後でちゃんとお給仕しますからね」
もちろん愛しのレディに気遣いも忘れずに。
トレイを手にきょとんとした顔のロビンだったが、やがて二人を見比べ楽しそうに笑った。
そんな顔を見ながら、本当にこの女は変わったとゾロは思う。
出会った頃に纏っていた負の空気は、今彼女の周りにはない。
だからふと口にしてみたのだ。
「ロビン、おまえ綺麗になったな」と。
+ + +
ゾロの話を聞いていたルフィが、あははとひっくり返って笑う。
あまりに笑うので少しばかりむっとしたほどだ。
「てめェ、笑いすぎだ」
「ゾロは言葉が足りなさすぎだ」
あっさり返されて口ごもる。
「ホントに言いたかったことはちょっと違うんだろ?」
ルフィの言葉にゾロが頭を掻く。
本当はゾロはロビンが『綺麗に笑うようになった』って言いたかったのだ。
言葉が足りないも何も、ゾロにとってたいして違いは無いように思うのだが、
しかし聞くなりサンジは赤くなったり青くなったり、果ては「マリモのくせに」などと訳のわからない理由で蹴りを繰り出してきたのだ。
「ゾロがロビンのこと口説いてると思ったんだろうな〜」
「んなことするか、あのアホコック」
普段はレディへの態度が悪いと言うくせに、たまに素直に褒めてみたらコレだ。
ただ思うことをそのまま伝えてやっただけなのに。
「ロビンは何か言ってたか?」
「いや、別に…ただ、笑ってた」
やっぱり綺麗な笑顔を浮かべたまま、ゾロに向かって素直に「ありがとう」と。
「ルフィ…」
「ん?」
「ロビンは変わったな」
「ああ」
かつて彼女の身の内にあった凍えた芯。それは永久氷壁のように硬く全てを拒んでいた。
何ものにも心を許さない冷え切っていた瞳を思い出す。
我が身すらもどこか投げやりであった彼女の笑顔は、いつも固く冷たかった。
ロビンだけではない。
最初からこの一味にいたゾロは皆の変貌をよく知っている。
ナミにしろサンジにしろチョッパーにしろ、出会ったときの皆の目は、ロビンと同じようにどこか冷え冷えとしたものだった。
夢を、再会を、冒険を、幸せを諦めた目。
それが今はどうだ。
船のあちこちから、ほわりと和やかな空気が漂ってくる。
鼻歌や笑い声やトントンとリズミカルに何かを打ち出す音。
全くどいつもこいつも。
ゾロは思い、思いながら苦笑する。
「ルフィ」
ゾロはもう一度その名を呼んだ。
何だ、と笑顔と共に言葉が返る。
「おまえが変えたんだ…全部」
何をとルフィは尋ねてこなかった。
その代わりに
「んー、じゃゾロはどう変わっただろ?」
おどけた仕草でゾロの顔を覗き込んでくる。
「却ってシワが増えたんじゃねェ?」
つんと眉間を突かれ、ゾロはわずかにたじろぐ。
「ゾロのくせに、あまりいろいろ難しいこと考えんなよ」
「うるせェ、おれには剣と…おまえだけだ」
「そーりゃ嬉しいな」
突かれた額をさすりながら答えれば、ルフィはくっくと笑いながら再び背を向けた。
途切れた会話。それでも二人の間に流れる空気が断ち切られたわけではない。
ごく自然にゾロはルフィとそこにいる。
そして向けられたルフィの背を見つめながらゾロは思う。
共に歩いてきてよくわかった。
ルフィという男はとてつもなく大きく広い。
その伸ばした腕は全てを許容し包み込み、抱かれた温かさの前には、どんな固い氷さえも溶かされてしまうのだからある意味ひどく恐ろしい。
子供のように屈託無い笑顔を見せるかと思えば、どんな場面にも怯むことなく前だけを見据える強靭な意志を持っている。
その魅力に皆が囚われながら、同時に安らぎを見出しているのだ。
だからこそ、この一味には様々な過去を持つ輩が集まり、そしてそれが嘘のようによく笑う。
全てはルフィの存在故に。
だが。
ゾロはふと気づいた。
それではルフィ自身の安らぎはどこにあるのだろう。
ルフィがふっと気を抜ける瞬間はいったいいつだ。
「ルフィ」
しなやかだがその体はゾロのそれよりずっと小さく細い。
その肩にどれだけの物を背負いながらルフィは生きているのだろう。
夢や希望や、そんな楽しいものだけではないはずだ。
喪失への恐怖やまだ遠い世界への焦りや怯え、そんなものをルフィは持ち得ないのか?
いや、そんなはずはない。
ゾロは知っている。
ウソップを失いかけたあの時。
いつも保っていた矜持も捨て去り、「重い」と呟いてただだくだくと涙を流していたルフィを。
「ルフィ」
「何だ、ゾロ?」
だがその気高くも孤高な背に、ゾロはどんな言葉をかけてやれるというのだろう。
おいで、なんていう自分はさすがに気持ち悪くて。
来いよ、と言うのはあまりに傲慢すぎる気がして。
だからゾロは、まっすぐに右手を差し出した。
「おれはここにいる」
そう一言添えて。
振り向いた一瞬、ルフィが驚いたように目を見開いたが、それはすぐに嬉しそうな顔に変わり
「ゾロ」
「え?」
とんと軽く甲板を蹴る音がして、二人の距離が一気に縮まった。
文字通り飛ぶようにルフィがゾロの前に立ったのだ。
「来たぞ」
差し出した右手を両の掌でそっと包み込みルフィが笑う。
「ルフィ…」
「ここにいてくれんだろ」
「ああ」
約束だと頷いた。
「ついでに貸してくれ、これ」
そう言ってルフィが指したのはゾロの胸。
「これって…」
自らの胸を見下ろしたゾロを他所に、ルフィはふっとその頭を凭せ掛ける。
「ルフィ」
「…あの場所から見る海はすげェ綺麗なんだ。どこまでも広くて青くて…おれは大好きだ。でも時々ふっとさ…」
静かなルフィの声が体の中を通るようにゾロに届く。
メリーの沈んでいった海。
シャンクスの腕を奪った海。
ルフィの大好きな海は時折酷く残酷にルフィを傷つける。
「この先もこいつはおれからたくさんの物を奪っていくんだろうな……ってそう思うと少しだけ…ほんの少しだけだぞ…足が竦む」
体重をゆっくりかけたまま、ルフィはゾロの背に両腕を回した。
「こんなん、誰にも言うなよ…」
「言わねェよ」
ぎゅっときつく抱きしめられる感触が苦しいのはルフィの力が強いせいではないだろう。
皆の孤独を、寂しさを、全て飲み込んでそれを笑顔に変えてくれるルフィ。
でも本人は周りに計り知れないものを常に一人で背負い、抱えてるのだとしたら。
泳げない身に、やがては己の命さえもこの海に吸い取られるのではと、そんな恐怖が頭を掠めることはないのか。
だがそれでもルフィは前に進み続ける。
己の夢のために。皆の夢のために。
「ゾロ…弱いおれは嫌か?」
「いや、惚れ直した」
「馬鹿」
噴き出す頭をぎゅっと押し付けるように胸に抱いた。
縋るように擦り寄ってくる体を抱きしめ、その頭に顔を埋める。
黒髪からは潮の香りがして、体の隅々までどこまでもルフィは海に囚われているのだと苦い思いを味わいながら、ゾロはルフィを抱き寄せた。
自分の全てをかけておまえの傍にいると、言葉ではなく体を通して伝えるために。
この海で一番自由な奴が海賊王だと、いつだかルフィは言っていた。
ルフィがどこまでも自由であればいいと願う。
この先に待つ孤独も恐怖も全て凌駕した、世界一自由な男。
その笑顔を守るために、自分はその隣で世界一強い男になろうと改めて己の心に刻み付ける。
どのくらいそうしていたのだろう。
やがて、よし、とゾロの胸の中でルフィが呟き、身を起こした。
ゾロの前で笑う顔はもういつものルフィのもの。
そこには恐れも迷いも躊躇いも、欠片も見えない。
「もういいのか」
僅かに過ぎった喪失感が漏れないよう気をつけながら、ゾロは静かに言葉をかけた。
「充分だ」
満足そうに頷く笑みは胸が満たされたからだろうか、先ほどよりも更に輝きを増した気がしてゾロもまたホッと頷き返す。
「ルフィ」
「ん?」
「おまえ、いい顔になったな」
しししとルフィが笑う。
ゾロの大好きな飛び切りの笑顔で。
「それって口説いてんのか」
「さぁね、おれは言葉が足りないもんでな」
手を伸ばし、ゾロはするりとルフィの頬を撫でた。親指の腹で滑らかな皮膚をゆっくりと辿る。
自分たちの進む旅路はまだまだ果てしない。
けれどルフィと共にある限り。
そしてルフィの傍に自分がいる限り。
その向こうにあるのは光に満ちた世界だと、わけもなく信じていられる。
「ゾロ…」
「いつまでもおまえと共に」
神にでもなく、海にでもなく、ルフィの笑顔にゾロは誓った。
< end >