古びた診療所の窓枠が、ガタガタと耳に障る音をたてるのは気にならなかった。
それよりも開くなり一気に流れ込んできた、いろいろな種類の料理が交ざり合った美味そうな匂いに刺激され、ゾロの意識はゆっくりと浮上する。
「腹減った」
目を閉じたまま、呟くと
「だろ?」
ベッドの頭上に設えられた窓からこちらに身を乗り出しているのだろう、ルフィの楽しそうな声が案外近くに聞こえた。
「アーロンから解放された祝いだってよ。みんな歌ったり踊ったりすっげぇ賑やかだし、食いもんもたくさん用意してくれてんだ。なあ、もう治療はいいんだろ?
早く行こうぜ。おまえが来ねぇなら全部オレが食ってやる」
「そりゃ困る」
くくっと笑ってゾロはようやく目を開けると上半身を起こした。
鷹の目にざっくり袈裟懸けにされた胸の傷は、医者の手によってきちんと縫い合わされたおかげで多少引き攣れた感じはあるものの具合はだいぶいい。
「よっし、じゃあさっさと行くぞ、ゾロ」
「了解、船長」
ココヤシ村のいたる所で祝いの準備が行われている。
忙しそうに走り回りながらも、人々の表情は揃って明るい。そんな中をルフィと並んで歩く。
もういいのかとかありがとよとか、村人からひっきりなしに声をかけられ肉の切れ端やコップに注いだ酒を次々に手渡された。
ご機嫌で肉に齧りつくルフィの隣で、ぐいと酒を煽ればきつめのアルコールが傷いた体の隅々へじんと染み渡り、それがまたゾロに生きている感覚を呼び起こしてくれる。
酒が旨い。
頬をなでるように吹き行く風が気持ちいい。
解放を祝う人々の声が耳に楽しい。
そして。
そっと伸ばして触れたルフィの手は温かい。
味わえる全ての感覚に感謝した。
「なんだ?」
触れた手はそのままに、ルフィがどうしたと振り向いた。
しみじみとらしくもない感慨にひたっていた自分に苦笑して、なんでもねぇといいかけたが、思い直して口にした。
「ヨサクとジョニーがな」
「ん?」
「ヨサクとジョニーのヤツが二人揃って頭の後ろ冷やしてるんだ。ドクターの見立てじゃかなり腫れあがってるらしくてな、てっきり魚人どもにやられたのかと思ったら、相手はおまえなんだとよ」
「オレ?」
ルフィがきょとんと首を傾げた。
鷹の目と呼ばれる世界一の大剣豪に挑んだゾロは、未だ力及ばずその剣の前に屈した。
剣は折られ、胸を貫かれ、相手に一太刀も浴びせることはできない自分に、世界一との差をまざまざと痛感した。
そんなゾロの危機を見かねて飛び出そうとしたヨサクとジョニーは、ルフィにものすごい力で押さえつけられたのだそうだ。
「手を出すな!」
ちゃんとガマンしろと、ぎりぎりと自らも唇を噛み締めながらルフィは二人に言い聞かせたという。
恐らくは二人に与えた何倍もの力で、自分自身をもぎゅうぎゅうと押さえつけながら。
「ルフィ・・・」
「どした、ゾロ?早く行こうぜ」
立ち止まったゾロを肩を叩いてルフィが促す。
ゾロの戦いにルフィは一切手を貸さなかった。
最後まできちんと見届けようとしてくれたその思いに感謝する。
そして、あの時死すら覚悟したゾロの中には
「それくらいなってもらわないとオレが困る」
いつもと同じ顔で、いつもと同じように笑うルフィがいた。
その存在があったからこそ、自分は今こうしてここにいる。
「大丈夫か、ゾロ?」
険しい顔で口を噤んだゾロの様子をいぶかしんで、ふっと覗き込んできた体を抱き寄せた。
そうしてからここが往来の真ん中だったと気付いたが、気にしないことにした。
おおおと周囲がざわついたが、それも無視した。
いずれナミかコックあたりに邪魔されそうな気もするが、今はルフィがちゃんと腕の中に収まってくれているからそれでいい。
「ルフィ、オレは死なねぇ」
「ああ」
きっぱりと告げた言葉にルフィが頷いた。
「だからおまえも死ぬな」
「ああ」
「死んだら殺す」
「怖ぇヤツだな」
ルフィが面白そうに、くくっと笑った。
「約束するよ、ゾロ」
抱きしめられた体勢のまま、ルフィがぽんぽんとゾロの背を叩く。
まるで子供をあやすときのように、安心しろと宥めるその手からルフィの体温が伝わってきた。
「オレはそう簡単には死なねぇよ。・・・だから」
抱き寄せた胸から顔を上げたルフィがじっと見つめている。
普段は子供のように開けっぴろげなくせに、時折深い色を秘める瞳がまっすぐにゾロの胸を貫いた。
「オレになにがあってもゾロはゾロの戦いをしろ」
「ルフィ・・・」
「約束だぞ、ゾロ」
「・・・ああ」
満足そうににっと笑ったルフィの顔が近づいてくる。
頬にふわりと触れた温もりがくすぐったくて思わず首をすくめたところで
「ちょっと、あんたたちこんなとこで何やってんのよ!!」
最強航海士の声が響いてゲンコツが降ってきた。
それきりその言葉の意味を確認する間もなく、彼らの日々は冒険に明け暮れあっという間に過ぎていった。
その中で次第にゾロは、あのときルフィが伝えようとしていたことを、言葉ではなく感覚として知ることになる。
常に一番強い敵を引き受けるように飛び出していく後姿。
必ずあいつは戻ってくるのだと自らに言い聞かせながら、ゾロは黙ってルフィを見送る。
手は貸さない。そんなことをしようものなら、自分がルフィに殴られる。
ゾロはゾロの戦いをしろ
今、ゾロはその言葉を改めてしっかりと胸に刻みつけていた。
橋の向こうに見える支柱。
そこでルフィはたった一人で戦っている。
あのハト野郎の強さはゾロもよく知っている。簡単に倒せる相手ではない。
「近いじゃねぇか、手を貸せば」
仮面の下ではどんな表情をしているのだろう、ウソップの上ずった声が耳に響く。
ああ、そうなのだ。
いますぐ飛んでいけば、傷ついたルフィを助けてやれることだろう。
けれど。
「やめとけ」
ぎりぎりと自分自身を押さえつけて、ゾロはウソップを諌めた。
「おれ達はここでルフィを待つ、それでいいんだ」
約束したのだ。お互い絶対に死なないと。
ルフィは必ず帰ってくる。
だからそれまでゾロはゾロの戦いをするだけだ。
それが二人で交わした約束なのだから。
でも忘れるなよ、ルフィ。
死んだら殺す。
オレはそうも言ったぞ。
約束を違えることがあるなら覚悟しとけ。
自らぎりぎりと押さえつけた後頭部は、きっとあのときの二人以上に腫れ上がることだろう。
= 終 =