月 下

盛り上がっている男たちの宴会は果てることを知らない。
次々に空いた酒樽をそこらに転がしながら、大きな声で夢を語り、
互いに肩を抱き、飲み、食い、笑う。
もともと陽気な一団ではあるが、剛毅な猿面の面々が加わって今日はよりテンションが上がっているようだ。
そして、先祖の語った途方もない夢を追って海に潜り続ける男が口にした、空のどこかにあるという島。
それを目指すというこれまた更に途方もない未知への冒険が一層彼らを煽り立てているのだろう。

空島だ−!黄金だ−!
そんな皆の騒ぎを横目で見つつそっとナミが席を立ったのは、些か酒がすすんで火照った体を冷ますためと、もう一つ。
少し前にトイレに行くと立ったきり、いまだ戻ってこない船長を案じてのことだった。

気をつけたつもりだったが古いドアはキィ・・と微かに軋んだ音を立て、その音に緑髪の剣士がふ・・と顔を上げた。
はしゃぐ皆には気付かない一瞬時間の止まった空間の中で、ナミと彼の視線がぶつかりそこだけが喧騒の狭間で音を無くす。
自分は一体どんな顔で彼を見返していたのだろう、
一見他人のことには全く頓着無いように見えながら、案外聡い彼の目が穏やかに細められた。
行け、とでも言うように軽く顎をしゃくると、何事もなかったかのように剣士は再び手に持った大ジョッキを口にした。

ずいぶんと余裕なのね・・
同じくらい船長のことを気にしているだろうに、顔色一つ変えずナミを見送る彼に腹立たしさを覚えた。
ナミがいくらじたばたしたところで、たいして気にもならないということか。
暗い思いが胸をよぎる。
今の感情に名を付けたくないと思った。
微かな自己嫌悪を抱きながらドアから滑り出ると、ナミは後ろ手にドアを閉める。
軽く閉めたはずなのに振動で右手にずきんと痛みが走り、思わず眉を潜めた。
少しの間忘れていたのに、またずきずきと疼きだした包帯の下の傷を左手でそっと覆う。

『小さな傷だからすぐ治る、大丈夫心配要らないよ』
昼間、馴れた手つきで包帯を巻いてくれながらチョッパーがにっこり笑った。
『ナミは女だからな、傷が残らなくて本当に良かった』
まだ幼いくせにどこで覚えたのか生意気な口をきくトナカイに苦笑した。

小さな小さな傷。
ルフィが酒ビン殴られた拍子に割れたガラスの欠片が飛んできた。
手を掠めただけだったので切った傷は確かにたいしたことない。チョッパーの言うとおり数日もすれば痕もなく治るのだろう。
けれど、この痛みは一生消えないのだとナミは思う。
ゾロを見るたびに。
ルフィを見るたびに。
微かだけれどちくちくととげのように自分を苛み続けるのだ。
この傷は「彼ら」と自分の距離を思い知らされた証だから。

暗く澱んだ空気に息が詰まるような酒場で。
目先に捕らわれた浅はかな者たちが、はるか遠くを見続ける者の夢を笑う。
むせ返るような酒の匂いと耳障りな嘲笑の中、
ルフィとゾロ、彼らは2人だけでそこにいた。
2人だけで同じ思いを共有し、同じ位置に立っていた。
あんなに叫んだのに、ナミの声が2人に届くことはなかった。
たとえ同じ場所にいようと、自分と彼らの立つ位置は違うのだと、その背中に思い知らされた気がした。



アルコールと熱気に火照った体に、外の澄んだ空気が心地よい。
日が暮れてから随分時間は経っているはずなのに、 大きな月が海から煌々と照らしてくれているおかげで、辺りは思っていたよりずっと明るい。
様々な思いをふりはらうように、鮮やかなオレンジ色の髪を揺らしてナミは顔を上げた。
とりあえず今は彼を探さないと、と思う。

大して苦労することも無く、数歩歩いてくるりと見回しただけで目的の人物はすぐに見つかった。
家のすぐ脇、すっぱりと刃物で切り取られたような島の縁に腰かけて、足をぶらぶらさせている後姿。
うっかり滑り落ちたら彼にとって命取りとなる海だというのに、昼間そこから海に引きずりこまれて溺れかけたなんて記憶は頭からすっ飛んでいるのだろう、
何にかまう風でもなく彼は自然にそこにいた。

「ルフィ・・・」
小さく呼ぶとそのままこてんと後ろに倒れてきた。大きな黒い目がナミの姿を認めてよおと笑う。
「何してんだ、ナミ」
「それはこっちのセリフよ。ちっとも戻ってこないから心配したじゃないの」
「悪ぃ」
大して悪びれもせず笑う。それはいつものことだ。
「どうしたの?」
「ん?トイレに来たらさ、ヘラクレスが飛んでるの見つけたんだ。ナミ知ってっか、ヘラクレス?こーんなでっけえカブトムシ」
片方の手の平を一杯に広げてこれくらいと示してみせる子供のような笑顔につられてナミもつい微笑んだ。
「で、捕まえたの?」
「いーや、森のほうに入ってったから追っかけようとしたんだけど、お前がいつも言ってるじゃん、一人でどっか行くなって。
それ思い出したから止めた」
「思い出してくれたんだ・・」
少しは自分もその麦藁帽子の下にある、夢をいっぱいに詰め込んだ頭の中に存在しているのだと思っていていいのだろうか。
「言うこと聞かねえとおまえ怖ぇからな」
ナミの気も知らないで、悪戯っぽくしししと笑い、ルフィはよいしょと身を起こして立ち上がった。
月を背に負った姿が眩しくてナミは少しだけ目を伏せる。

「そんで戻ってきたら月がすっげえ綺麗でさ、ちょっと見ていたくなってここに座ってた」
「そう・・」
「なあなあナミ、俺たちあそこに行くんだろ?」
まっすぐに月を指差し、期待に満ち満ちた目でルフィが覗き込んでくる。そのあまりの一途さにナミは思わず噴出した。
「ばかね、あんなとこまで行けないわよ。もっと下の・・ほら、うっすらとかかっているあの雲くらいまでかな」
「ふーん、そっか」

でも。
ルフィがそうと望んだら月までだって自分たちは行く気がする。
少なくともあの男は何の躊躇いもなく従うだろうし、自分も口では何とか言いながらそれでもきっとルフィとともに行くだろう。
彼の傍にいられるのなら。

「ルフィ・・」
「戻るぞ、ナミ」
言いかけた言葉をあっさりと遮られ、そうねとナミは頷いた。
一度決めればルフィの行動は早い。
ナミの横をすり抜け、相変わらず賑わう家に向かってすたすたと歩き出す。
また置いていかれるのかと、ナミは少しだけ慌てた。
「ちょっと待って・・・」
引き止めようと追いかけ、急いで伸ばした手が微かに触れたのだろう、
ルフィが急に立ち止まり、ナミはその勢いで思い切りルフィの背にぶつかる羽目になった。
「・・った」
「わ、大丈夫かナミ?」
鼻を押さえて俯けば、さすがに悪いことをしたかと、気がかりそうにルフィが振り向こうとする。だがナミはそれを許さなかった。
「振り返んないで!」
怒鳴られてルフィはぴしりと前を向く。
「おまえ泣いてんのか」
「違うわよ」
そう答えたはずなのに。
体が揺らいで、ナミは目の前にあるルフィの背に縋り付いていた。
赤いベストをぎゅっと握り、唇をきつくかみ締めた。
気を抜いたら涙が出てしまいそうになる。
それはぶつかった顔が痛いせい、ただそれだけだ。
またルフィの背を見せられたからじゃない。
いつだってその背を追いかけるばかりの自分が悲しいから、なんてことじゃ決してない。

縋り付いたままにルフィの背にそっと耳を当てれば
とくんとくん・・
規則正しい心臓の鼓動が聞こえた。
これはルフィの音だ。
たとえどんなに姿形が変わっても、きっと聞き分けられる永遠に変わることのない彼の魂の音。
腕を回し、ぎゅっとさらに強く縋り付いた。
もっともっと近くにいたくなって。
服を通り越し、境界線のような邪魔な体さえ無くして、もっとルフィとくっ付いていたかった。
女の体は本来なら彼と一つになれるためにあるのに、今は却ってそれが煩わしい気がする。
アイツは・・・男の体を持ちながら自分よりももっとルフィの近くにいるのに。

「ナミ」
少しの間の後、今度ははっきりとしたルフィの声がナミを呼ぶ。
その声にはっとしたようにナミはルフィから身を離した。
「やだ・・ルフィ、あたし・・」
自分でも思いもしなかった行為に戸惑い、きっぱりとした彼の声音に自己嫌悪を募らせる。
「ルフィ・・ごめんなさ・・」
だがルフィは最後まで言わせなかった。
ナミの手を引いて引き寄せると、向こうを向かせたまま自分の前に立たせる。
さっきまでとは逆に、ナミの背側にルフィが立つことになった。
「何?」
肩越しに振り返ると麦藁帽子の下でその目がにやりと笑った。
「ナミの位置はここだ」
ルフィの声はきっぱりと告げる。
「おまえは・・・おまえだけはずっと俺の前を歩くんだ。おまえがいないと俺はどこにもいけねぇよ、ナミ」
ふわりとルフィの腕が降りてきて、ナミの体をそっと包んだ。

いつの間にそんな殺し文句覚えたのだろう・・
そんなこと言われたらもう離れられないじゃないの、とナミは幾分恨めしく思う。
自分を包む腕のぬくもりを温かく感じながら、それでもナミには口にしたい言葉があった。

「ゾロは・・・」
いつでもルフィを見ているもう1人の存在。
ルフィと同じ位置で同じように夢を追うことのできる存在。
自分とルフィと彼と。
互いの位置はどうなっているのだろう。
女の狡さだと苦々しく思いながら、それでもナミはそれを確かずにいられなかった。

「ゾロはいいの?」
「ん、ゾロ?」
ルフィが笑う。
「あいつに先歩かせたら、俺たちどこ連れて行かれるか分かんねえぞ」
「そうね」
思わず笑ってしまった。
うまくはぐらかされた気もするけれど、これ以上聞こうとも思わなかった。

「ルフィ・・・」
「ん?」
「行こうね、空島」
「おお」
絶対連れて行ってあげる。
あたしはあんたの航海士だから。

大好き、と唇だけでそっと告げる。
艶やかな頬に一粒だけ零れた涙は、月明かりだけが見ていた。

= 終 =

atogaki
ナミ→ルフィ←ゾロです。
ルフィの矢印はどこに向かっているんでしょう?
ナミにとってルフィは特別だと思うのです。
恋愛感情かはわかりませんが、とても「好き」だと。
途中に「るろうに剣心」のアニメの(古…)OP「1/2」からとったフレーズがあるのはバレてます?


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