船をあけわたそう
ゾロの言葉に従って長いこと一緒に航海してきた船を下りた。
大好きな羊頭の船にもう帰らない日が来るなんて誰が予想できただろうか。
誰もが無言のまま町へ向かい宿を取った。
そこの宿屋の主人に指摘されて、ようやく皆、ルフィが全身血と埃にまみれて汚れきっていたことに気が付いた。
硝煙のにおいも今だ鼻について痛いほどだったが、
別にそれをどうとも感じなかったほど、麻痺し疲れきっていたのだ。
部屋に風呂がついてますからとにかく早く入ってくださいと焦る主人に頷いて、ルフィは黙って鍵を受け取り二階へ上がった。
温かい湯に浸かって足を伸ばす。
あちこちにできた細かい擦り傷がしみてちくちくと痛んだが、それでもその温かさに少しだけほっとした。
さすがに宿屋だ、ここの風呂は広い。
メリー号の風呂は狭かった。
しかも所詮船に付いた風呂だから簡易この上ない作りだったが、
それでも潮風に晒され戦いに傷ついた自分たちの体をあの風呂はどれだけ慰めてくれたことだろうか。
ゴーイングメリー号と別れる。
それはルフィ自身が決めたことだ。
寂しくないと言えば嘘になるが一切の未練も感傷ももう切り捨てた。
新しい船を迎える覚悟は充分できている。
先を目指す海賊団の船長としては上出来だと、自分でも思った。
だからぱしゃりと、一度だけ思い切り湯に拳を叩きつけ、
頭に浮かんでくる陽気なウソつきの顔を遠くへ押しやった。
不意にばたんと扉が開いた。
「なんだよ」
一人で浸っていた張り詰めていた空間に、さあっと外の空気が流れ込んでくるのが今は少しだけ不快だった。
かける声も自然不機嫌なものになってしまう。
「男の風呂に入ってくんな」
「いいでしょ、一緒に入るわけじゃないわよ」
扉の外に立っていたナミは全く遠慮する様子も見せず、
顔を洗わせてちょうだいとずかずかと風呂場に入ってきた。
言葉どおりもちろん服は着たままだ。
つんと顔を上げしっかり前を向いているが、
泣きはらして赤くなった顔が痛々しくてルフィは僅かに目を背けた。
湯船の傍の蛇口でナミはばしゃばしゃと顔を洗い出す。
何度も何度も、それはいつまでも止むことを忘れたかのように繰り返されるのに、
しかしルフィはそれを止める術を持たない。
「ゾロたちはどうした」
「知らない」
「なんでおまえ俺の部屋に来てんだよ」
返事は返ってこなかった。
だから仕方なく、ルフィはナミに一言だけ声をかける。
「もう泣くな」
と。
ばしゃん
ナミの手から飛沫が飛んだ―――ルフィの顔めがけて。
「馬鹿船長!」
あれだけ洗っていたはずなのに、そう叫ぶナミの顔はまだ赤く、
涙か水か分からないままぐしゃぐしゃに濡れていた。
「何であんたはそうなのよ!あんなの…何考えてんのよ!!」
ルフィに答えられるはずもない。
「あんなにもういやだって言ったじゃないの…」
悲しい叫びはいつしか力を無くし、そしてナミはぺたりと風呂の洗い場に座り込む。
「…服、濡れるぞ」
長い沈黙の後、ルフィが発したのはそんな見当違いの言葉だった。
「馬鹿…」
ナミが顔を上げてゆっくりと湯船に近づく。
そしてルフィの右手をその両手に包み込んだ。
それはルフィが「彼」を思い切り叩きのめした手だ。
船に帰ってからも疼き続ける痛みを耐えるかのように、
ずっと握り締めたままだったのをナミは知っている。
その凶器をなった手を、ナミはまるでやわらかな雛鳥のように胸に抱き寄せそっと撫でる。
そっと、そっと。
幾度も撫でる。
「痛かったでしょ…」
ああともいいやとも答えずにルフィは黙ったままだった。
「一人でこんなに傷ついて・・・だからあんたは馬鹿なのよ・・・」
「うるせえな」
ルフィは湯に沈み込み目を閉じた。
だがとられた右手を引こうとはしなかった。
ナミのするがままにまかせている。
口にしたい言葉はあった。
これでよかったのかとか、これからどうしようかとか。
でもナミの手は優しくて温かい。
今は優しいそのぬくもりだけを感じていたいとルフィは思った。
< 終 >