人間、物を食わなくたって3ヶ月は生きられる。実際に体験した俺が言うんだから間違いない。
だけど水が飲めなかったら、数日で死ぬ。これも恐らく間違いない。
だから、海水のくみ上げマシーンと、性能のいい簡易濾過器と、馬鹿力だけは有り余ってる野郎どもと。
3拍子揃った我が海賊団はその点において心配皆無の実に恵まれた身分だったのだ。
ついこの間までは。
3日前俺たちは海軍と一戦ドンパチやった。
もちろん有能な航海士ナミさんのおかげで無事逃げおおせたけれど、その際に打ち込まれた大筒の一発で、3拍子のうち2つ
――くみ上げマシーンと濾過器――
それに加えご丁寧にも買い置きの水樽まで壊されてしまった俺たちは世にも可哀相な干からびた海賊団に成り下がったのだった。
水が欲しい。それもごくごくと飲めるやつ。
周りにはふんだんにあるけれど、それは全部塩化ナトリウム入り。悲しいことに一滴だって飲めやしない。
ちまちまとくみ上げた海水を、これまたちまちまと蒸留し、何時間も手間をかけてほんのちょっぴりの水を得る。
一人分にしたら舐める程度。だがそれが俺たち7人分の命を繋ぐのだ。
飢えた記憶は体の隅々にまで染み付いているが、俺は幸か不幸か渇いて死にそうになった記憶はない。
今でもありありと思い出せるあの殺風景な岩場には、幸いくぼみがたくさんあってたまに降る雨を蓄えてくれてたからだ。
もしあの水がなかったら俺もクソジジイも恐らく一週間とは持たなかったろう、そう思うとぞっとする。
ナミさんはずっと見張り台から双眼鏡で空を見回している。近くに島影や雨雲がないか必死に探しているのだ。
ウソップはずっと濾過器の修理にかかりっきりだが、部品が足りないので器用な腕をもってしてもかなり苦労している。
ロビンちゃんは文献を捲って効率的なろ過の方法がないか調べている。
チョッパーは海水の蒸留担当だ。丁寧に丁寧に真水を作り出している。
力自慢の筋肉馬鹿はチョッパーを手伝い海水のくみあげだ。
一味の命にかかわる大問題だ、全員必死である。
相変わらずこんなときもすることがないお気楽な船長と、それに今は全く役立たずのコックの俺を除いては。
そう、今の俺は自分でも驚くほど役に立たない。
舌を蕩かすようなスープも、夢を与える甘いデザートも、まず作る水がなくては始まらない。
もちろん煮るだのゆでるだの、無理な話。
肉を焼くくらいならできるだろうが、そんな真似したら余計渇きを誘発してしまう。
今の皆に必要なのは水。
それ以外になく、しかし俺はそれを提供することができない。
何がコックだ。俺は自嘲気味に笑う。
日頃から皆の命を預かるだのと豪語しておきながら、非常事態にこのざまだ。
何も生み出すことのできない手。
「すげぇなあ、サンジの手は何でも作れるんだなあ」
いつもクソ船長がそう言ってしげしげと眺めてくる視線が心地よかった。
だが、今の俺は何のために存在しているのだろう。
もちろんキッチンの掃除もできないので、俺はいつもなら蹴り飛ばす反行儀、テーブルに腰掛けたままただぼうっとしている。
まいった。
キッチンに立てない俺には居場所がない。
「こんなときくらいゆっくりしてなさい、サンジくん」
そう言って笑ったナミさんのいつもなら瑞々しい唇が今は乾いて割れているのを見るのが辛い。
飢えて渇いているレディに手を差し伸べることもできず、逆に労わってもらってどうするというのだ。
イライラした気分を振り払おうとポケットに手を伸ばしかけたが、水分を失って久しい喉に煙草は刺激が強すぎると思いなおして止めた。
そこへ
「サンジ」
ひょこっと目の前に赤いベストが現れた。
「何か用か、クソ船長」
いつも抜けるように澄んだルフィの声が少し掠れている。ナミさん同様唇もかさかさにひび割れているのだろう。
それが簡単に想像できるから、その顔を見ないまま俺は答えた。
悪いが今の俺はコックとしてのアイデンティティにかかわる問題で精一杯なのだ。構ってやれる精神的余裕がない。
そっとしててくれと思ったのに、奴はずずずっと椅子を引きづって俺の傍まで持ってくると、そこにちょんと腰掛けた。
考えてみればこいつがこっちの事情など気遣うはずがなかった。
「なあサンジ」
愛すべきクソ船長は屈託のない声で俺を呼ぶ。
「何だ」
「腹減った」
「は?」
さすがに俺は自分の耳を疑った。そんな様子を見て
「サンジのメシが食いたい」
ご丁寧にもルフィはきちんと言い直す。
俺を見つめる瞳は、いつもと同じ。「サンジの手はすごい」と真っ直ぐな賞賛を向けてくるあのキラキラした光を放っていた。
「なあ、まだ肉あんだろ?」
「ああ、ある・・・でも水がねえ」
わかりきったことを言わせんな、馬鹿。
「焼くのに水はいらねえぞ?」
何を言ってるのだといわんばかりの顔でやつは俺を見る。
「食ったら喉が渇く。こんなときに飯はヤバイだろ」
しかも焼いた肉かよ。
こいつの常人とのズレ方には時々可愛さを通り越して腹が立つ。
そんな俺に気付いているのかいないのか、それでもクソ船長はまた繰り返した。
「腹減った。サンジ、メシくれ」
「クソバカ船長、今の状況を考えろ」
「今の状況って?」
きょとんと聞き返す表情は心底理解できていない様子で、
俺は血管が切れそうになるのをこらえながらルフィの耳を思い切り引っ張ってやった。(結果的には伸びただけだったが)
「今・この船には・水が・全然・ねえんだよ!」
猿頭にもわかるように一言づつ区切って言い聞かせた。
だのに
「で?」
相変わらずの猿頭は、それで何を大騒ぎしているかと言わんばかりだ。
「ルフィ、知ってるか、水がなきゃ俺たちはオダブツなんだぜ」
「知ってるぞ、だからナミが一生懸命空を見ているんだろ?」
ナミが探している。
ウソップが修理している。
ロビンが調べている。
チョッパーが蒸留している。
ゾロがくみ上げている。
みんなが必死に働いている。
「なのにサンジはなにサボってるんだ?」
かちーん。
擬音語というものが形になるなら、俺の頭から今この言葉が飛び出したのが見えたことだろう。
確かに何もしてないが、少なくともおまえにだけは言われたくない。
「サボってんじゃねえ、することがないんだよ!」
「だからメシ作れって言ってんだ」
まるで堂々巡りのループだ。
いい加減うんざりしている俺を見て、ルフィはにっと笑う。
「おまえはこの船のコックだろ」
はっきりとした宣告はあれこれと思い悩んだりする間を俺に与えない。
「おまえの位置はあそこだ」
ルフィがまっすぐにキッチンを指す。
「お前はあそこにいろ、きっとナミが雨雲を見つける」
「見つけられなかったら?」
「ウソップがポンプを直す」
「直らなかったら?」
「ロビンがいい方法を思いつく」
「思いつかなかったら?」
「ゾロとチョッパーが水を作る」
「足りなかったら?」
「俺が何とかする」
「俺はここにいる。ここにいてみんなを信じてる」
ルフィは何の迷いもない目を外に向けた。
そこでは誰もが一生懸命この船を守るために動いている。
「だけどそれでもどうにもならなかったとしたら・・・そのときは」
俺の血でも何でもくれてやる。
それを飲みゃあいい。
この船を率いる船長はさらりとそう言ってのけた。
「どんなことをしても俺がみんなを絶対に守るから安心しろ」
「・・・ばーか」
「サンジ?」
「きっぱり言ってんじゃねえよ、クソ船長」
俺は椅子から立ち上がると袖を捲り上げた。そしてルフィの頭をぽんと一つ叩く。
「つまらねえことグダグダ考えてる俺が馬鹿みてぇだろが」
叩かれたくせに頭を押さえてしししとルフィが嬉しそうに笑った。
了解だ、船長。
そして俺は俺の場所に戻る。
「待ってろ、今からとんでもなく美味い肉焼いてやる。だが手は洗えねえぞ、覚悟しとけ」
「おう」
最もそれくらいで腹を壊す奴はこの船にはいないだろうが。
振り返れば椅子の背もたれを抱きかかえるようにして、ルフィが俺を嬉しそうに見ている。
全くとんでもない船長についてきたものだ、
改めてそう思い知った俺は、本人に気付かれないようこみ上げてくる可笑しさをそっと噛み殺した。
「みんな雨雲よ―! 早く右に舵を切って―――!!」
ナミさんの弾むような声が船に響いたのはそれから間もなくのことだ。
= 終 =