深い眠りの底から意識が急浮上したのは、船中に漂うそれはそれは極上な匂いのせいだ。
きっちりと自らの仕事をこなすサンジの朝は早い。
彼が作る朝食の匂いは、板の隙間を潜り抜けて船の隅々まで伝わり、朝日よりも海鳥の声よりも確実に朝の訪れを皆に告げる。
全神経を思い切り刺激され、腹減ったなぁとまだぼんやりした頭でルフィは思う。
冒険の合間の敵襲の恐れもない穏やかな朝。
海賊稼業にしてはひどく贅沢な時間だと思いながら、ルフィはまだ寝床の中で身体を眠らせる。
いつもならこの芳しい誘惑に乗っかって、「サンジー、メシー」とけたたましくキッチンに飛び込んでいくのだが、今日は違った。
あと少しだけ…と瞼を閉じたまま、ルフィはこの誘惑にじっと耐える。
徐々に覚醒しつつある意識で周りの状況を探ってみた。
ゾロは朝の鍛錬だろう、ずいぶん前から気配がない。
朝の早いブルックとフランキーも、とっくに起きているようだ。
支度を終えたウソップが、「早く来いよ」と世話焼きな彼らしい一言を残して出て行った。
「今日のごはんは何かな〜」チョッパーが鼻をひくひくさせながら楽しそうにその後に続く。
そしてしんとなった男部屋にはルフィ一人が残された。
その代わり上からは、ばたばたとしたたくさんの足音が聞こえる。
慌しく一箇所に集まってきて順に落ち着いていくのは皆が食卓に着いた合図。
まだもう少しだけ。
やがて。
とんとんと、軽やかな足音が近づいてきた。
少し小走りに。でも別段苛ついているわけでもなさそうなことにホッとする。
足音が止まると同時にドアが開いて、
「ルフィ」
大好きな、まっすぐ通る優しい声に、ああやっぱり来てくれたと嬉しくなった。
「…ったく」
わざと返事をしなければ、ため息交じりに苦笑する声。
敏いサンジのこと、狸寝入りなんてとっくにばれているのかもしれないと、近づいてくる気配に高鳴る鼓動を必死に堪える。
「ルフィ」
声がすぐ上から降り注がれた。
「おはよう船長。もう朝なんだけど?」
ぎゅぅっと閉じていた目をようやく開くと、真っ先に飛び込んできたのは、
朝の光をそのまま持ち込んだようなまぶしい金の髪と、自分を優しく見下ろす青い瞳。
「サンジ…」
息と共に漏らした声は鼻にかかって甘くなり、少しだけ恥ずかしくなる。
そんな思いを読み取ったのか、サンジは苦笑するとふわりとルフィの髪をかきあげた。
「今日はずいぶんネボスケだな、朝メシいらねェの?」
「ん…やだ…欲しい…」
まだよく回らない口はそれだけをたどたどしく語り、
サンジが入ってきて二人になった空気に甘えるかのように、
ルフィは僅かに頭を持ち上げてサンジを見上げた。
「早く起きろ、ルフィ」
困ったようにサンジが頭をかく。
「でないと食われちまうぞ」
ああ、それは困ると思った。
サンジの美味いメシが他のやつらに食われてしまうのは本末転倒だ。
本当はサンジに甘えたくて、わざとぐずぐず寝坊を決め込んでいただけなのに。
「悪ィ…今起きるから…」
でも自分を見下ろすサンジの顔はこのまま飾っておきたいほど綺麗で、
この二人だけの時間をもう少し味わっていられるなら、朝メシと引き換えにしてもいいかなと、少しだけ迷う。
「残念…タイムオーバー」
その逡巡が悪かったのか。サンジの声がアウトと告げる。
「ちょ…待て、起きるって…ば」
あわてて起き上がろうとするルフィを、しかしサンジはその肩をとんと突いて寝床に押し戻した。
「だから言ったのに」
「え」
「早く起きないと食われちまうって」
そう呟くなり、ふわりと降りてきたのは朝の一服のほろ苦さが残る唇。
「そんな誘い方されたら、我慢できなくなんだろが」
「べ、別に…誘ってなんて…」
ウソつけとサンジが笑う。
「この声で…」
「ん…」
抗議しかけた口を再び塞がれて、鼻から甘い声が漏れる。
「この目で…」
「ふぁ…」
今度はふっと離されて、縋りつくようにその余韻を追ってしまう。
「思いっきりおれを欲しがっていたくせに」
熱い瞳で覗き込まれて、胸がくっと鳴った。
「サンジ…」
「ん?」
「手が…」
サンジの手からは香ばしいパンの匂いがした。
今、上で仲間たちが口にしているだろうサンジ特製焼きたてパン。
ほかほかでふわふわで熱々で。
でも今ルフィの肌に触れている手は、きっとその何倍も熱い。