サンジが支配するこの空間はとても優しい。
キッチンのドアを開けるたびにルフィはそう思う。
優しいという言葉が的確なのか、ボキャブラリーの乏しい自分にはよくわからないが、
それでもコックという、人に与える生業を選んだサンジの優しさがふわりと全身を包んでくる感覚は、
どこかくすぐったくて、気持ちがいい。
とんとん、ぱちぱち、ことこと、ぐつぐつ。
鍋やフライパンが賑やかな音色を奏でる。
甘かったり辛かったり、ときにはぴりっとするような匂いが芳しく鼻腔を刺激する。
全てがサンジの指先一つで操られるここは、船長であるルフィですら侵すことのできない彼の領域だ。
「どうした」
気配を忍ばせてそっと入ったつもりなのに、サンジは振り向きもせず声をかけてくる。
ここでは何もかも見透かされてしまうことが少しだけ悔しい。
「腹減ったんだろ。何か作ってやるから、ちっと待ってろ」
「ああ」
椅子を引いて腰を下ろし、テーブルに肘をおいて頬杖をつく。
メリーの頭に座って、海の彼方をじっと見るのも好きだけれど
こうして料理を作るサンジの背中を見ることも、実はとても好きだったりする。
けれどいつも背中ばかり見せられるのはつまらない。
「なあ、サンジ」
だからルフィは声をかける。たまにはこっちを向けよと念じながら。
「ん?」
しかし、労わるような声は返してくるけれど、サンジが振り向くことは滅多にない。
コックの仕事はいつでも多忙なのだ。
「なんだよ」
「ん〜オレもさ、コックになればよかったかな」
「へえ、そりゃどうして」
じゅぅっと肉を焼き付ける音がする。
「そしたらいつでも美味いもんが食えるだろ?」
そう言ったら、はははとサンジが笑った。
味見だけで空にするつもりかよ。そう言ってまた笑う。
「てめえがコックになんざなれるもんか」
「シツレーなこと言うな」
「だっててめえは海賊王になるんだろ、ルフィ」
ルフィ、と穏やかな声で名前を呼ばれるのは好きだ。
自分もサンジの空間の一部になれた気がするから。
「だからオレがここにいるんだよ、海賊王」
ほら、と目の前に置かれた皿に思わず目が釘付けになる。
こみ上げてくる唾をごくりと飲み込む。
ルフィの大好物である肉の焼いたやつ。ほんのりと香ばしいガーリックの匂いがした。
おまえが食いたいものはいつだってオレがちゃんと用意してやる。だからとっとと海賊王になっちまえ。
そう言ってまたくるりとキッチンに向かうサンジの背に、はっと気付いたときにはすでに手遅れ。
しまった、とルフィは後悔する。
肉に目を奪われてせっかく向いた顔を見るのを忘れた。
「なーサンジ」
だから必死で呼びかける。
「あぁ?」
「美味いな、これ」
「当たり前だ、誰に言ってるクソゴム」
フライパンを洗いながら、サンジが答える。
「なーサンジ」
「あぁ?」
「付け合せのじゃがいも、もうちっと軟らかい方がいいな」
「了解、船長」
今度は大鍋のスープをかき回しながら。
「なーサンジ」
「あぁ?」
すっとルフィは息を吸う。
「オレ、おまえのこと好きなんだ」
「そりゃ、ありがとよ」
何かを刻んでいた手が軽く振られる。
せっかく意を決して伝えたというのに、サンジの声はいつもと全然変わらない。
オレこの料理好きなんだ、たぶんそう言っても同じ調子で返事が返ってくる気がする。
そんな落ち着き払ったサンジといると、自分がものすごいお子様に思えてしまうのでルフィはなんとなく面白くない。
「オレ、サンジが好きなんだ」
もう一度ルフィは繰り返した。
「嬉しいだろ?」
「まあな」
真っ直ぐに伸びた背中は、相変わらず愛想のない返事を投げつけてくるが、
けれどそのときルフィは気付いてしまった。
規則正しかった包丁の音が、かたかたっと僅かにリズムを狂わせたことに。
サンジの優しい空間が、ルフィの放った言葉に震えていることに。
「なあサンジ」
「……あぁ?」
「おまえはオレが好きか?」
「……勝手に話を進めんな」
「だって聞きてぇもん」
「知るか」
でも、どんなに体裁を取り繕っても一度ゆらりと揺らいでしまった空間はもう元には戻らない。
「なあサンジ」
「……あぁ?」
「こっち向けよ」
「なんで…」
「今、すっげぇおまえの顔が見たい」
長い長い溜息の後、かたんと包丁が置かれる音がした。
= 終 =