ふぅー、と吐き出された煙が細くなびきながら夜の闇に消えていくのをサンジは黙って見送っている。
甲板を吹き行く風に身を晒しながら、一日の仕事を片付けを終えた後に口にするいつもの一服だ。
労働で適度に疲れた体をたゆたわせながら、頭だけをゆっくりと働かせる。
明日のデザートは何にしようか、そろそろあの肉は古くなってきたから早めに使ってしまおう、そういやあの香辛料も切れかけているな・・・
取りとめもなく一人そんなことを考えながら夜の海を眺めるのは、すでにサンジの儀式みたいなものだ。そうやってその日を締めくくり、また明日へと繋げていく。
そして今日も。
静かな夜に、時折船に打ち付ける波の音が耳に心地よい。
その音に身を漂わせながら手すりにもたれて島を見渡してみる。
田舎の小さな島だ。
普通の港町にはつきものの猥雑とした酒場や娼館といったものも存在せず、
まだ宵の口ながら町はすっかり明かりを落として静まりかえり、健康的な寝息が聞こえてくるようだった。
メリー号に目を戻せばこちらも同様で、これと言って他にすることもない寄港者たちは夕食をたらふく腹に収めると、
みな早々に部屋に引き上げ寝てしまった。
荒い航海続きでだいぶ疲れも溜まっているから仕方ない。
昼間あれだけホタルを見たいと騒いだ船長も、どうやら睡魔には勝てなかったらしい。
サンジは散々駄々を捏ねてた大きな子供の姿を思い出して一人苦笑する。
「馬鹿が。期待させんじゃねえよ・・・」
小さな呟きは風の音にまぎれて消えた。
と、
コツコツと。
近づいてきた足音にサンジは振り向いた。
「ロビンちゃん・・」
日頃から黒系統の服を愛用する彼女はまるで夜の中から現れてきたようで、不意をつかれてさすがのサンジも少しばかり驚いた。
「お仕事は終わり?」
聞きながら彼女はふわりとサンジの横に並んで手すりに身をもたせた。
足元に置いたランプの淡い光に彫りの深い彼女の横顔が照らされる。宵闇に黒髪がしっとりと馴染んだ。
「まあね。後は明日の朝食の仕度が少し」
「・・私にも一本もらえるかしら?」
サンジの手元にちらりと目をやってロビンは軽く首を傾げた。
初めて聞く彼女の意外な申し出に、目を瞬かせながらもサンジはポケットから煙草を取り出してその一本渡す。
「あまり女性の体には良くないですよ」
ライターで火を点けながらも気遣いは忘れない。
「ありがと。一口だけね」
先をサンジが差し出した炎に当てたロビンがその薄い唇に銜えて軽く吸い込むと、ぽう・・とオレンジ色の光が闇に点る。
ロビンは黙ってその火を見つめた。
「夜の煙草の火を蛍に例える話を聞くけど、どうなのかしらね」
「どうって・・・?」
「こんな人工の光が敵うわけもないわ」
「そうですね。あれは・・・」
まだバラティエに落ち着く前、ゼフと2人で旅をしていた頃のこと。
綺麗な水を湛えた清流の辺に魚料理によく合う香辛料があると聞いて訪ね入った山奥の村で、サンジは生まれて初めて蛍を見た。
明かり一つない吸い込まれそうな真の闇の中を、凛としたいくつもの光が翡翠色の線を描いてあちらへこちらへと舞う。
綺麗だと思うよりその光の激しさに圧倒され声も出せずにいたサンジに、チビナスじゃあ無理もねえかとゼフが笑い、
あれは命を燃やしてるからな、と呟いた。
蛍の光は命の火。
クソジジイにしちゃあ随分ロマンチックなこと言うじゃねえか、とサンジは思った。
「あれは命の火だから・・・」
思い出すようにふと口に出してみれば今でもそれは不思議な感覚でサンジを捉えて止まない。
「見に行かないの?」
ロビンに尋ねられようやく我に返った。
「ああ、良いですよ、ロビンちゃんが行きたいなら是非お供しましょう」
「私じゃないわ、船長さんとよ」
その言葉に少しの間忘れかけていた胸の痛みが蘇った。聡い彼女にそれを悟られないよう、サンジは調子よく肩を竦めて笑い飛ばす。
「野郎2人で蛍見物なんてクソ面白くもない。大体アイツはもう寝ちまって・・・」
「寝てないわよ」
遮られた言葉はそのまま行き場を失った。馬鹿みたいに口を開けたまま、サンジは次の言葉を見つけられない。
「だってあなたと約束したじゃない」
あの駄々を約束と呼べるものならば。
「他の皆に気付かれるといけないと思ってるみたいで、ちゃんと横になって寝た振りしてるの。それでつい寝ちゃいそうになるのを必死に堪えてるわ」
「覗きましたね・・・」
彼女の能力。咲かせた目で。
「内緒」
ふふふと笑って、そろそろ短くなってきた煙草をサンジの差し出した携帯灰皿に押し付けて消した。
「そろそろ来るんじゃない?早くお仕事片付けて出かけてらっしゃい」
「今夜はよく喋りますね、ロビンちゃん。あなたの声が聞けるのは嬉しいけど」
「そうかしら。・・・じゃあもう一言」
そしてロビンはサンジに身を寄せ、幾分低めの艶やかな声で囁いた。
「恋に焦がれて鳴く蝉よりも・・・だったかしら」
「・・・粋なこと言うんですね。その続きを聞いていいのかな」
「あなたも気をつけるのね」
サンジの問いに答えは返されなかった。
今夜は本でも読みながら私が不寝番するわと、軽く手を振って彼女はまた闇の中に消えた。
それと入れ違いに、ぱたぱたと聞き慣れた軽いゴムぞうりの音が近づいてくる。
取りあえず足音を忍ばせる努力はしているようだが、あまり意味は無さそうだ。
「サンジー!」
嬉しそうな声をあげながら、船長が期待に満ち満ちた顔で一直線にサンジを目指して走ってくる。
「声がでけぇよ、馬鹿。みんな起きちまうだろ」
「サンジ、行こう!ホタルだホタル!」
「ああ、わかったよ」
遠慮もなく胸に飛びついてくる体を抱きしめた。
さっき風呂に入ったであろうにハンモックの上で散々寝たふりをした結果か、妙にしっとりと汗臭い髪に顔を埋めて、来たのかと呟く。
それにルフィが顔を上げてうひひと笑った。
「何か悪いことするみてぇ」
サンジと2人でな。
その言葉に煽られた胸が一度だけどきりと鳴った。
「馬鹿言ってろ」
ゴムの身体には効果ないと知りつつその柔らかな頬を抓って、そのまま自分の心も抓り上げようやくの思いでサンジはルフィの体を離す。
「行くぞ」
「うん」
船から飛び降りた2つの影が、静かな夜の町に消えた。