2    〜10年前〜



ルフィがゾロに出会ったのは10年前。

その日大きな海難事故が起こり一隻の船が沈んだ。
海に飲まれて彷徨い出た魂たちを次々と導いていたルフィだったが、 ふと今にも消えそうな命が波間に漂っていることに気づいた。
船から投げ出されたのが却って幸いしたようで、船が多くの命を引き連れて海底に沈んでいく傍らで 小さな子供は震えつつ、それでも生への限りない渇望で必死に板切れにしがみついていた。
だがそう長くはもたないと思った。
いずれは力尽きたこの子の魂も導かなくてはいけないのだと胸が痛んだが、 そのとき子供の手がずるりと板切れから外れた。
幼い身体があっという間に波にもまれて海中に消える。
もう抵抗する力も残っていないようだ。子供は静かに海の狭間をたゆたい揺らぎながら沈んで行く。

いや、まだだ。まだあの子は生きている…
それを言い訳に、導くはずの魂を逆にその手に受け止めた理由をルフィは未だに見つけられない。
強いてあげるなら、彼の緑の髪に懐かしい故郷の草原を思い出した、とでもいうところか。
小さな身体を腕に抱き、船を浮上させると子供のぐったりした身体を甲板に寝かせた。
その唇から幾度も息を送り込み、生きろとただひたすらに願う。
やがて、子供はぬるんだ海水をごぼりと吐き出し、こんこんと身を折って激しく咳き込んだ。
その背を擦ってやりながら大丈夫かと抱き起こしてやれば、泣きそうな翡翠色の瞳が自分を見上げてきた。
「頑張ったな」
そっと頭を撫でると、子供は震えながら両の腕でぎゅっと自らの身を掴む。
泣くまいとしっかり唇を噛み締める姿がいじらしくて、ルフィは手を伸ばすとしっかり子供を胸に抱き寄せた。
「もう怖くねェだろ」
小さく頷く子供の背をあやすように撫でると、やがて子供の手がルフィの背に回された。
ルフィの胸に顔を埋め、すぅと息を吸い込み、そこでようやく落ち着いたように身体の力を抜く。
そして子供が呟いた。
「…おまえ…海のにおいがする…」 と。
それは長の年月味わってきた悲しい事実であり、逃れられないルフィの運命。
「おれはずっと海にいるからな」
苦笑しながら僅かに身を離そうとしたが、
「でもイヤじゃない…」
さらに顔を摺り寄せながら子供が言う。
「おまえの海なら好きだ…」と。
幼い子供の言葉に暗く澱んだ胸の中を照らされた思いがした。
厚い霧が一気に晴れていくようで、ルフィは無言で子供をぎゅっと抱きしめた。

名を尋ねると、ゾロだと答が返ってきた。
まだ9つで、家族とともにあの船に乗っていたのだと言う。
一瞬にして天涯孤独の身となった幼いゾロの行く末は気がかりだったが、 海の呪いに囚われている自分がこの子と共にいることはできない。
せめて陸の近くまで連れて行こうとしたが、ゾロはルフィの手をしっかり握り離れるのを拒む。
縋るように見つめてくる純粋な瞳を振り切ることができず、ルフィはゾロを3日だけ連れて航海することにした。
3日後は5月5日。ルフィに陸へ上がるのを許された日だったから。


ゾロと同じ船で過ごした間、ルフィはゾロとともにたくさんのものを見た。
登る朝日、水平線の彼方に消えていく夕日。
あっという間に襲いかかってくる竜巻。
トビウオの群れ、大きなイルカ。
積み重ねられた厚い雲、丸い虹。
全てとっくに見知ったもののはずなのに、ゾロと一緒にいるだけで新鮮に思える。
「面白いか?」
「ああ、すげェ」
何よりも隣で目を輝かせながら一つ一つに感嘆のため息を漏らすゾロに、気づくとルフィはいつも見入っていた。

だが時間は飛ぶように過ぎ、あっという間に別れの日が来た。
ルフィはゾロの手を引いて人気のない浜辺に降り立つ。
久しぶりに踏みしめた大地は、とうに忘れたはずの懐かしくも苦い感情を思い出させる。
しっかりと握られたゾロの手から伝わる体温に、家族と触れ合っていた過去が蘇る。
「ルフィ?」
様々な感情が一気に押し寄せて黙り込んだルフィに気づき、背伸びをしたゾロが心配そうに覗き込んだ。
「大丈夫だルフィ。おれがここにいるだろ」
「…生意気言ってんじゃねェ」
どんだけ年下だと思ってんだと、軽く小突いて苦笑しながら共に陸地を歩いた。
日も、風も、全てが海の上とは違う。
両親の亡くなった日に一切捨てたはずのものをこんなに懐かしく思うのは、恐らくゾロを知ってしまったから。
土を踏みしめ、この子供と共に生きられたらどんなに嬉しいかと。
胸に過ぎった未練を、しかしルフィはくっと唇を噛み締め振り払った。
「ゾロ」
呼びかければ無垢な瞳が何だと見上げてくる。
「3日間楽しかった。ありがとう」
「変なルフィだな、助けてもらったのはおれだぞ?」
そう言って律儀にぺこりと頭を下げたゾロに苦笑しながら、ルフィはそっとゾロの手を外した。
「……ゾロ、ここでお別れだ」
「え?」
「おまえはこのまま町に帰れ」
「いやだ!」
怒ったように目を見開き、はっきりとゾロは拒絶した。
「ずっとルフィと一緒にいる!」
「ダメだ」
「どうしてだよ、おれはルフィのことすげェ好きなんだぞ!?」
そのきっぱりとした思いがどれだけルフィの心を救ってくれたことか。
だが多くの思いを封じたままルフィはゾロの頭をそっと撫でる。
「おれはおまえと一緒にはいられないんだよ」
「どうして」
「そういう決まりなんだ」
多くは語らなかった。
頑なに首を振るゾロを宥めるように撫でながら、しかし共にいることは叶わないとそれだけは決して譲らなかった。

それでもそのまま別れるには、 ゾロと過ごした蜜月にも似た濃い時間はルフィにとってもかけがえのないものになってしまっていた。
だからルフィはほんのわずかな未練を残す。
「なぁゾロ……、もし…もしもおまえがおれをずっと覚えていてくれるなら…」
口にすべきではない禁断の言葉だったろう、しかしルフィはその言葉を唇に乗せた。 「5年後の今日、ここに来い」
「5年後?」
「次におれたちが会えるのはその日だ…」
5年という月日は幼いゾロにとって、先の見えない遠い未来に違いない。
これから成長を重ねれば、その中に埋もれてしまうような小さな約束かもしれない。
それでもルフィはゾロにそう告げた。
これきりでないという約束は、恐らくゾロではなくルフィ自身のために。
「わかった。覚えてるから約束は守れよ、ルフィ」
「ああ」
ようやく頷いたゾロを残し、ルフィは振り返ることなく海へ向かって再び歩き出した。
「おれは絶対覚えているぞ!」
背後でもう一度叫ぶ、ゾロの声を聞きながら。