やはり1、2度迷いはしたものの、ゾロはどうにか無事船長室に着いた。
この部屋にドアは無い。
開けっぴろげな船長が要らねぇの一言でさっさと取っ払ってしまったからだ。
廊下から丸見えな「船長室」の中はランプの灯りが醸す微かな光でゆらゆらと揺れているが、まだぼんやりと薄暗くて、
中にいるはずの人影は夜目に慣れたはずの目にも良く見て取れない。
ただ彼がいる気配は感じられるので、かつてドアがあったであろう位置をゾロがゆっくりと踏み越えると、
「来たかよ」
その瞬間を見越したように声がかかった。
「ルフィ」
淡い橙色の光の中、目を凝らせば部屋の中央に立つ彼がこちらを見て笑っている。
年の割りに相変わらず子供っぽい顔立ちをしているが、それでも随分と大人びた雰囲気にはなってきたと思う。
若干ではあるがさすがに落ち着いても来たし、何より口元に見える髭のためだ。
いつまでも幼げなルフィを心配したやはりこれもナミが、彼に髭を生やすことを勧めた。
元々憧れるシャンクスもそうだったとかで、これに対してはルフィも特に異を唱えることなく従ったが、実はそれからが大変だった。
どうやらルフィは髭の生えにくい体質らしく、いつまでたってもぽやぽやとした産毛が口の周りにあるばかり。
日頃あまり彼の顔をじっくり見ることもない下っ端の船員たちは「船長、顔にゴミが・・」などといってはゴムゴムのお仕置きを食らい、
昔馴染みはそんな様子に腹を抱えて笑った。
それでも最近はどうにか生え揃い、そうなるとそれなりに貫禄も出て見られるようになるもので、ゾロはほう・・と思う。
もちろん自分も同様に年を重ねていることは考えてもいない。
「どうした、何の用だ?」
入り口で尋ねれば顎で中に入るように促され、ゾロは部屋に足を踏み入れる。
柔らかな絨毯の感触に足を取られそうだ。
部屋の中には奥に大きな机と椅子、来客用のソファセットなどの調度品が並べられている。
どれも目の利く航海士が、海賊王となったルフィのために選んできた一流の品ばかりだ。
にもかかわらず本人がこれらを使用することはほとんど無く、せっかくの品物が泣いてるわ、と見かねたナミが自分の道具を持ち込んで
ここの広い机で海図を描くようになったというのは、この海賊団らしい逸話ではある。
その大きな机にルフィはゾロを促した。
ずかずかとやってきたゾロはそのまま遠慮なくその机の上に腰掛ける。
ルフィはランプの灯りを強めるとその後に続き、腕に抱えた幾つかの紙の束をばさばさと机に広げ始めた。
ルフィの示したそれは海図だった。
ルフィが海図?
初めて見る珍しい光景にゾロはしばし絶句する。
「いいか、ゾロ。あのな、今俺たちの船がいるのがこの辺り」
と言ってルフィはその一点を指す。
そこには誰が見ても一目で分かる赤い大きな丸と、見覚えのある彼女の筆跡で「ココ」と言う文字があった。
「そんでな、これから俺たちが向かおうとしているのが・・・えーと・・・あれ?」
ルフィは首を右に左に傾げながら、必死に思い出そうと海図と格闘している。
「どっちだったかなー?・・・うーんと・・さっきナミに教えてもらったばっかなんだけどなー・・・?」
両手に持った紙をくるくるくるくる回しながら考えること数秒・・・。
結局
「ま、いいや、どっちでも」
さっさと諦めると、またばさばさと全部の紙を机から滑り落とし、代わりに自分がぴょんと机に飛び乗りゾロの隣に座った。
「自分の船の進行方向も分からねえ海賊王なんざ、前代未聞だな」
そういってからかえば
「いーんだ、俺には腕のいい航海士がついているんだから」
悪びれもせず胸を張って返してくるので、お前が威張るなとゾロはその頭を一つ小突いた。
冒険の当初から彼らの旅を導いてきた航海士ナミの腕前はゾロもとっくに認めているところだ。
相変わらず小煩い面もあるが、その洞察力と判断力で彼女の細腕はこの船の危機を幾度も救ってきた。
その腕ならどの海賊団でも、いや海軍本部においてさえも最高の待遇で迎えられるに違いないと思えるほどで、
いつだったかウソップが実はルフィの次に高額賞金首にした方がいいのはナミじゃないかと言っていたことがあり、その意見にはゾロも密かに頷いたものだ。
そのナミは今もここにいる。
思えば10年もの間、一度もルフィの傍を離れなかった。
それは彼女もまたゾロと同じくルフィに捕らえられてしまったから。
ルフィの未来だけを映す大きな瞳に惹かれ、野望を一杯に詰めた細い体に絡めとられた。
そして彼は一度手に入れたものは、逃がしてはくれないから性質が悪い。
「でな、ナミが言ってたんだけどよ・・」
ルフィがくすくす笑いながらゾロに身を寄せてくる。
わくわくしているのが筒抜けの、まるで「いいこと」をそっと内緒話で打ち明ける子供のような顔で。
「俺たちの行く先にすっげぇハリケーンがあるんだと。前代未聞、超巨大、被害も結構出るんじゃないかってさ」
ほう、とゾロは呟く。ではこの静けさはハリケーンの前触れか、と合点がいった。
最もそれを聞いたところで、ゾロに他に思うところはない。
ハリケーンがあろうがなかろうが、進路を決めるのは自分の役目ではないのだから。
「それでな」
またルフィがゾロの耳元に口を寄せ、更に彼ご自慢の「いいこと」を囁く。
「斥候に放った奴らが帰ってきたんだけど、この海域に海軍の船がどんどん集結してるんだと。それもハンパじゃない数」
向かう先は巨大ハリケーン、周りを囲むは膨大な数の海軍、
「すげえだろ、絶対絶命の大ピンチだぜ!?」
それなのにルフィは楽しくて仕方ないらしい。こみ上げる笑いを必死で噛み殺しているのが見て取れる。
「で、どうする、ゾロ?」
「斬る」
試すようなルフィの問いにもゾロは表情を変えることなく、淡々と答えた。
だがそれはルフィを満足させたようで、くすくす笑いの代わりに顔一面に嬉しそうな表情を浮かべるとそのままゾロを見上げた。
「ルフィ?」
「俺はな、伸びる」
「・・・ナミは盗む、だな」
「ウソップは・・」
「もう逃げねぇだろ」
「撃つ、だな」
そこで互いの顔を見合わせて、その瞳に深い安堵を味わう。
「海図も読めねえ頭のくせによく覚えてたじゃねえか」
ゾロはくっくっと笑いながら、ルフィの髪に手をやり、そっと梳く。
それは今では随分と昔。ウソップの故郷の村を守るために戦った日の台詞だ。
はるか遠い記憶であるのにゾロにはあのときの一語一語が今でも鮮明に思い出せる。
いやあの一幕だけではない。ルフィと出会ってから今まで全ての出来事がゾロの中にはしっかりと刻み込まれているのだ。
「ちぇ、ゾロこそ方向音痴のまりも頭のくせによ」
からかわれて、ぷ・・と膨れる様はとても27の海賊王には思えない。
だがそんなルフィを見られるのはごく一部の者だけに限られているわけで、ゾロはその特権を嬉しく思う。
ゆっくりと髪を梳く手をルフィが捕らえた。
「どうした?」
「・・いや、ゾロに触りたかっただけだ」
ゾロの腕を捕らえたそのままルフィの顔が伏せられて、ゾロにはその表情が読み取れない。
泣いているようには思えなかったが、いつにない仕草に不安を煽られた。
「ルフィ・・?」
「ゾロ・・俺はどうしたらいい?」
「・・進むしかねぇだろ」
「そうだよな〜・・、おっかしいよな・・俺。
いつもこんなの楽しくて仕方ないのに・・今だってほんとに楽しいんだけどさ・・・でもどっか怖いんだ・・・」
怖いという言葉をルフィの口から聞いたのは初めてだと思った。
意外な言葉にゾロはどんな顔をしていたのだろうか?ちらと見上げたルフィが苦笑する。
「んな顔するな。ハリケーンも海軍も怖くねえよ・・・ただ・・この船はでかいから・・・」
最後の方は消え入るような呟きだった。
ルフィの不安・・ゾロにも理解できた。
ルフィが恐れているのは失うことだ。
これだけの船と船員で、ハリケーンと海軍の両方に立ち向かうのだ。
優秀なのが自慢の船員たちだが、今回のような事態で全くの無傷ですむとは思えない。
犠牲者はでるはずで、それをルフィは恐れているのだ。
昔からルフィは仲間と認めた者を守るために戦ってきた。
それは気負いでも衒いでもない彼自身の中から自然に沸き起こる本能のようなものだ。
だが、こうして大きくなってしまった海賊団では目が行き届くはずもなく、当然ルフィ1人で守ることもままならない。
それが彼の不安。どんなものでも失うことを恐れているルフィ。
・・・馬鹿なことを、とゾロは思った。だから言ってやる。
「ばーか」
と。
いつだって自分の思いのままに突っ走ってきたくせに。
こっちがどんなに心配しようと振り返りもせず、飛び出しては戦っていた。
どれだけ傷つこうと自分に正直に動き、そして必ず欲しいものをその手中に収めてきたルフィ・・・そう、それがルフィなのだ。
それはルフィを誰よりも知っているはずのゾロだからこそ言ってやれるセリフ。
「今更船長ぶったこと言うんじゃねえよ」
ルフィに捕らえられた腕を外し、今度はその頬をそっと撫でる。
そっと、そっと。
突き放すような言葉とは裏腹に、ありったけの思いを込めて。
「お前は何も考えなくていい、そのままでいろ」
「ゾロ・・」
「俺がいるよ、ルフィ。何があってもな」
ゆっくりと上げた顔の僅かに赤みを帯びた目元に胸を突かれたが、ゾロは真っ直ぐにルフィを見つめ続けた。
ゾロが言葉を紡ぐたび、濡れて揺れる瞳の奥から再び湧き上がってくる輝き。
光を取り戻した彼を感じる。
「信じろ。俺はお前の隣を離れやしねえ・・」
「それは約束か?」
「ああ、最初からそうだったろ」
あの日、あの処刑場で出会ってから、自分はずっとこの男のものだったのだと改めて思い知る。
「ゾロ」
自分を呼ぶ声にもう迷いはない。何と力強いことか。
「何だ」
「ありがとな」
「ふん」
見交わす瞳にそれ以上言葉が要らないことを知る。
2人の間にゆっくりと沈黙が下りていった。