巨大ハリケーンが近づいているという航海士の言葉に間違いはない。
少しずつその兆候は船を包み始めているのだろう、船内にいても帆に当たる風の音は僅かずつ強さを増し、
ばさばさという音がやけに耳障りに聞こえ始めた。
だがそれもそうと聞いているかららしく聞こえるだけであって、
もし何も知らなければゾロとて他の者と同じように過ごしていたはずだ。
船は静まり返っている。
ほとんどの者がまだ何も知らず、安穏と夢の中にいる。
オレンジ髪の優秀な航海士長率いる担当の一団はやがて来たる危急の事態に対し、
皆に知らせる前に対応を決めるため、一睡もせず顔をつき合わせて検討を重ねているのだろう。
船のどこかでざわついた気配がするのはそのためか。
だがそれはナミが知らせに来るその時まで、ルフィとゾロにはまだ関係がないことだ。
2人はただ船長室の机に座り、互いの背を重ねたままで時を過ごしていた。
ラフな部屋着の薄い布地を通して、ルフィの背の温もりがゾロに伝わってくる。
交わす言葉はなかったがそれは必要ないからだ。
あまりにも反応のなくなったルフィに、寝てしまったのかと心配になったゾロがそっと身じろげば
「いいな・・こういうの」
去っていく感触を惜しむかのようにルフィが口を開いた。
「やっぱゾロだけだ、俺が背中預けられんのは」
「そりゃ光栄だな、船長」
飾りのない素のままの率直な好意に笑顔を返し、もう寝た方がいいと頭に手をやりぽんぽんと2つ叩いた。
それは昔よくやっていたルフィを促すゾロの仕草。子ども扱いするなとよく怒っていたけれど。
だがルフィはそれには従わなかった。
再びころりと机に仰向きに寝転ぶとそのままゾロを見上げた。
「どうした?」
ルフィの何かを求めるような眼差しにゾロもつい幼子を抱える保護者のような口調になる。
あんたはルフィに甘すぎるのよとよくナミに叱られるが、実際ナミだってこの目に弱いのは周知の事実である。
「これからちょっとやっかいなんだろ。今のうちに寝とけ」
すい・・・と精一杯の思いを込めてルフィの髪を梳く。
「ゾロ・・・」
27には見えない幼さを残す大きな瞳がゾロを見上げてくる。
それに静かに背を押され、ゾロは身を屈めるとルフィの唇にそっと触れた。
優しく撫でるように幾度か角度を変えて口付けを交わす。
それは今まで幾度もなされた2人の密やかな行為だが、ルフィに触れるだけで今でも変わらず心安らぐのをゾロは感じる。
「ゾロ、髭はちゃんと剃れ。くすぐったいぞ」
唇を離せば体の下でくすくす笑い声がする。
「てめえこそだ。髭が当たって痛ぇ」
言い返しながらゾロも笑う。
そういえばルフィの髭が生え揃ってからキスをしたのは初めてだったと思いながら。
髭が痛いなどとルフィに文句を言う日がこようとは不思議なものだ。
世界が憧れる海賊王になった今ですら、ゾロにとってルフィは出会ったときのあどけない少年のまま変わらないのに。
ふと過去に意識を飛ばしたゾロにルフィがそっと手を伸ばしてきた。
その頬に手をあて確かめるように幾度も撫でる。
「どうした?」
「・・・もっと触っていいぞ」
「は?」
ルフィは答えを待たなかった。ゴムの手を伸ばしてゾロの首を捕らえるとそのまま思いっきり引いた。
「おいっ!!」
抗議の声を上げる間はほとんどなく、ゾロはルフィの上に倒れこむ形になる。
じたばたともがいて何とか体勢を整えようとするがルフィの手はしっかりとゾロを捕らえたままで、どうにもならない。
しかもゾロはしっかりと船長の上に圧し掛かった形であるから、
暴れれば暴れるほど傍目から見て誤解を生みそうな状況になっているのは確かだ。
「おい、ルフィ!離せって!!」
「ししし・・・離さねえよ、ゾロ」
丸い目が楽しそうに細められる。明らかにゾロの反応を見て楽しんでいる顔だ。
「誰かに見られたらヤバイだろうが」
「今更か?」
確かにルフィの言うとおりであり、その言葉にゾロもふ・・と気が抜けてしまった。
相変わらず短く刈りそろえられた頭髪をがしがしと乱暴に掻くとわざとらしく大きめの溜息を一つつく。
「・・たく、いい加減にしろ、てめえは幾つだ」
「27だ、お前に会ってから10年だぞ、ゾロ・・・」
不意をつかれたようにゾロは動きを止めた。
ルフィの言葉に彼の中から聞こえてくる歳月を重ねた深い思いを感じ取って。
「10年・・お前と一緒に生きてきたんだ」
ゆっくりとルフィは言葉を紡ぐ。
「・・ああ、そうだな・・」
吐息と同時に言葉が出た。
ルフィの真っ直ぐな視線がゾロのそれと重なる。互いの瞳に互いが映った。
忘れるわけがない。
いつだってゾロの隣にいた大きな野望を一杯に詰めたはじけるような姿。
船首に座って前だけを見据える一途な瞳。
ゾロはその瞳に惹かれ、長い歳月を共に生きてきたのだから。
かつて、ここで死ぬか海賊となって共に来るかという究極の二者択一を無邪気に仕掛けてきた悪魔の息子のような顔を思い出す。
その手を取れば最初の仲間がお前でよかったと幾度も嬉しそうに飛びついてきて笑う、子供がそのまま大きくなったような少年。
ボートのような小船で意気揚々と乗り出した航海。
日々は全て冒険で、息つく暇もなく危機(ピンチ)と好機(チャンス)が巡ってくる。
そんな中でゾロにとってルフィが「特別」になっていたのはいつからだったろう。
何にでも好奇心旺盛で首を突っ込んではそこらじゅうを滅茶苦茶にして皆からど突かれるお子様船長。
それなのに闘いの時はこれほど頼りになる奴はいない。
ルフィが行くなら大丈夫・・・仲間たちにはそんな不文律ができるほどに。
いつも楽しそうに笑っているくせに、時にははっとするような光をその目に宿す。
共にいればいるほどルフィという人間が分からなくなる。
いくら探っても底は知れず、気が付けばルフィから目が離せなくなっていた。
それはしかし、今までほとんど他人に関心を寄せたことのない自分には驚いたことにとても心地よいものだった。
そしてその感情に名が付くまで対して時間はかからなかった。
ルフィに対する特別な感情。
胸に宿ってしまったそれは仲間が増えていくほどゾロの心を締め上げる。
何故なその思いの向かう相手は仲間と名の付く全てのものに惜しげなくその笑顔を振りまくのだから。
手を伸ばせばすぐそこにいる。名を呼べば何だよと軽やかに笑う。
それで充分なはずだったのに、・・・それなのにゾロはそれ以上のものが欲しくなった。
今思えばそれは単なる雄の下卑た欲に過ぎなかったのかもしれない。
真っ白な雪原に一歩目の足跡をつけて喜ぶ子供と何ら変わらない幼稚な征服欲だ。
何の汚れもない無邪気な瞳に自分以外の存在を映してほしくなくて、・・・ある日ついに体ごと手に入れた。
それは一方的に強いた無理矢理な行為だった。
それなのに。
ルフィは驚き戸惑いながらもさして抵抗は見せなかった。
行為の後、暴かれ疲れきった体を起こしながらもゾロを責めることなく、ただひでえなとだけ言って軽く笑った。
「いいのかよ」
開き直ってわざとぶっきらぼうに声を掛けたゾロに、ルフィは何がだと答えた。
はぐらかすのでもなく、本当に頓着しない彼独特の物言いで。
「んー、まだあちこち痛ぇや」
ルフィが文句を言ったのはそれだけだった。
返す言葉も見つからず、ゾロはルフィの頬に手を伸ばしてそっと触れる。
「おまえは本当におまえなんだな・・・」
「なんだそりゃ」
ルフィが可笑しそうに笑った。
その後2人は若さも相まって度々体を重ねるようになる。
ゾロが欲した時もあったし、ルフィから求めたこともあった。
元来子供並みに我が侭な彼だ。
欲しいと思えばごくごく自然に甘えたり擦り寄ってくる。
そしてゾロもまた互いの求めるままに飛びついてくるその体を抱きしめ、優しいキスを送る。
陽気な海賊船の船長とその傍らに立つ剣豪は、こうして誰もが認める「特別」になり、月日はそのまま二人の上に重ねられていく。
そして今。
まもなく訪れるだろう恐らく人生最大級のピンチを前に、またルフィはゾロを真っ直ぐに見つめ、もっと触っていいなどと軽口を叩く。
何言ってやがる、
ゾロは冗談めかしてルフィを小突いた。
だがルフィがそれで怯むわけもない。
「もっかいキスしろ、ゾロ」
「それは船長命令か」
「そう言わなきゃしてくれねえのか?」
口ではそう言いながら、相変わらず反対されることなど微塵も考えていない尊大な態度に、
はあと小さく息を吐くとゾロは再び身を屈めてルフィの唇に自らのそれを重ねた。
意地もあって今度は少し深く口付ける。
久しぶりの行為に少しだけ心臓が高鳴った。
ルフィが僅かに身じろいだが、嫌がる風でもなくそのままゾロの背に手を回してきた。
子供のようなルフィは体温も高い。
触れた唇、触れた指先、
触れた身体のあちこちからルフィの熱が移ってくるようでゾロは軽い眩暈を感じた。
「ぞ・・ろ・・」
唇の離れる隙をつくようにして、ルフィがゾロの名を呼ぶ。吐息が顔にかかり、更に鼓動が高まっていく。
「どうした、ルフィ・・」
ゾロもまたルフィの名を呼びながら抱きしめる腕に力を込める。
右手で額の髪をかき上げてやれば、懐かしい仕草にふ・・と微かな笑い声がした。
「ぞろ・・・」
ルフィが背を抱く手に力がこめられ、ゾロは体の奥に疼くぞくりとした感覚に正直自分を保つ自信がなくなってきた。
「ほら、もういいだろ」
ありったけの精神力を総動員して、ゾロはルフィの上から起き上がる。
ちぇ・・とルフィが舌打ちしたのが聞こえたが、敢えて無視すればいくらか気分を害したようで、眉を顰めてしかめっ面をするルフィに思わず苦笑した。
「あんまり煽るな」
そして優しくその髪を梳く。
揺れた心を落ち着かせるように、幾度もそればかりを繰り返す。
「好きだよ・・ゾロ」
ゾロの穏やかな手の感触に、ゆったりと目を閉じながらルフィが呟く。
その言葉を遠く聞きながら
「ああ、俺もだ」
ゾロも呟く。
そのまま夜の帳に沈黙が降りてゆく。
波乱の予感を秘めながら夜は更け、船はゆっくりと「そのとき」に向かって舵を切っていた。