激しくなってきた風に畳んだ帆がマストごとぎしぎしと音を立てている。
耳障りな音は今にも帆柱を持って行かれそうな不安を更にかきたてる。
降り出した雨は次第に足を強め、甲板も人もお構い無しにばたばたと容赦なく打ちつけてくる。
不幸にも巨大ハリケーンの予想は違わず(ナミが航海に関して予想を外したことはない)、それは彼らの船へ次第に近づきつつあった。
船は妙な緊迫感に包まれている。
辺りは雨に煙り、望遠鏡を使っても大して様子を見ることもできないが、
その向こうには海軍の船が多数集結していることはさっきから盗聴用の黒電伝虫を通じて聞こえてくる無線交信から察せられる。
あちらさんも最大級のハリケーンと最大級の海賊団を前に、最高潮に緊迫しきっているのががなり声が飛び交う交信から伝わってくる。
少し前に挨拶代わりか大筒の一発が打ち込まれたが、それきり何の音沙汰もないのは
どうやらこの雨と風に自慢の大砲が皆しけり、使い物にならなくなってしまったかららしい。
体勢も整わないまま右往左往している混乱振りが窺える。
それはこちらにしたところで同条件だが、優秀な航海士のお陰でいち早くその情報を察知し心積もりしてきた分利がある。
それに遠距離用の武器が使用不可能ならば白兵戦勝負、
そうなればいくら数で負けていようが一騎当千の強者揃いのこちらに勝機も見えてくる。
誰もがそう思っていた。
だからここで船長の下した決断に、船員全員が驚きのあまり声を出せなかった。
「この海賊団を解散する!」
船中に響き渡る声でルフィはそう宣言した。
全員積んである小船に乗り、急いでこの船から離れろと。
どよめきは最高潮に達し、驚きと怒りと悲しみが一緒になった船員たちの悲壮な叫びが部屋中に響いた。
「ちょっと待って、ルフィ!」
慌てたせいか、少し咳き込みながらナミが異を唱えた。
「聞かねえぞナミ、船長命令だ」
「何言ってんのよ、そんな一方的な命令に従えるわけないじゃない」
そうだそうだとあちこちから賛同の声が上がる。
「何のために今まであんたと一緒に滅茶苦茶な航海してきたと思ってんのよ、こんなとこでじゃサヨナラなんていうためじゃないわ!」
だがルフィはのんびりと部屋の外を眺める。
「すげぇ雨・・。やっぱお前すごいわ。言うことがぴったり当たっちまう」
「誤魔化さないで!」
「だからこの嵐の中をあのちっこい船でみーんな無事に連れて行くのはお前しかいないんだってば」
「誰が降りるって言ったのよ、あんた1人残して・・・!」
「1人じゃねえよ」
激しい興奮に高ぶるナミの高い声を遮って割り込んだのは、この船に乗るものはすぐにそれが誰のものかと分かる、
どんな時でも落ち着いた、低くそれでいて妙に耳障りの良い彼の声。
「ゾロ・・」
「俺も一緒に残る。お前らの心配は要らねえよ」
部屋の一角に陣取り壁を背にして腰を下ろしたまま、見上げた目線はナミでなく、その後ろに控えた大切な船長だけに向けられている。
そして船長もやはり同じようにその黒い大きな瞳をゆったりと彼だけに向けていて。
2人だけに通じる空気で頷きあっていると、それが分かるからナミは少しだけ悔しく思う。
室内は静まり返り、誰かが唾を飲み込む音がやけに響いて聞こえる。
こんな緊迫した事態なのに、のんびりと日向ぼっこでもしているような表情で見つめ合う2人に、
きっと皆が同じものを感じ取っているのだろう、誰も言葉を発することはできなかった。
ナミはふるふると震える唇を噛み締めながら、人生の大半を委ねてきた長い付き合いの2人を見つめる。
それ以上何も言わなかったのはこの船長も相棒の剣豪も一度決めたことは決して覆したりしないのを長い経験で知っているから。
「・・本気なのね・・・」
「ああ」
「勝手な男」
「今更だろ」
にっと笑うルフィの口元は昔と変わらず悪戯っ子のままで、その変わらなさが一層悔しくて涙が出そうになるのをナミは必死で堪えた。
「しょうがないわね、馬鹿船長」
深い溜息とともに今までの思いを吐き出すように。
「悪ぃな、ナミ」
いつもはその言葉に悪びれたところなんてないのに、今だけは本当に済まなそうにルフィは頭を下げた。
それは今まで幾多の航海を共に乗り切ってくれた、大切な航海士への精一杯の礼なのだと受け止める。
「今更。でもね、一つだけ条件があるの」
「何だ?」
「2人とも・・・生きて・・・必ずまた、あたしたちを仲間に誘いなさい!」
ナミの言葉に今まで黙っていた船員たちが一斉にうおーっと声を上げた。
顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら、船長、船長、と口々に叫ぶ仲間たちの雄叫びで船内が大きく揺れた。
ルフィは黙って俯いただけだったが、その口元が軽く綻んで、そうだなと動いたのをナミははっきりと見た。
もう一度馬鹿と呟いてその腕をきゅっと抓ってやった。
振り切るように船員たちに振り返ると、ナミはまだ興奮状態で叫び続ける彼らに負けず声を張り上げる。
「さ、みんな、こーんな馬鹿な奴らはほっといて行くわよ!
10分で支度して船尾の補助船に集合!遅れることも残ることも許さないからそのつもりでね!」
断固としたルフィの態度と、ナミの有無を言わせぬきっぱりとした口調に、船員たちからそれ以上の抗議は聞かれなかった。
彼らはナミの号令にすぐさま従うべくぱっと散る。
「さすがだな、ナミ」
心底感心したようにルフィが肩を竦めた。ナミのこの強さは昔から少しも変わらない。
戦って勝ち取るのではなく、大切なものを何があっても守り抜こうとする女性ならではの強さ。
だからこんな場面での彼女にはきっと一生勝てないだろうとルフィは密かに思うのだ。
「じゃ、行くわね、ルフィ」
「サンジを頼む」
「うん、チョッパーもいるから大丈夫。彼は悔しがって泣いてたけど・・・」
サンジは最初の砲撃でナミを庇って被弾し、古傷の背骨を傷めて戦える状態ではなくなっていた。
彼らにとって明らかな戦力の低下であり、それが今の事態をルフィに決断させた一因でもある。
自分が原因となったことにきっとひどく負い目を感じているだろうに、
だがそれをナミはおくびにも出さず皆の命を背負ってただてきぱきと指示を与える。
彼女はいつでも何が一番大事なことかを知っているから。
「・・・必ず来るのよ」
「当たり前だろ」
すぐさま言い返した船長に微笑んで、ナミはその頬にキスを送るとヒールの踵を響かせて駆け去っていった。
「ルフィ!」
部屋を出るナミを見送る形で入れ替わり入ってきたのはウソップだ。手に通信用の電伝虫を持っている。
「交信できたぞ」
「サンキュ、ちょっと貸してくれ」
ハリケーンのせいでかなり電波が乱れているが、ウソップがうまく調整してくれたお陰でどうにかやり取りはできそうだ。
ガリガリとした金属音の中から聞きなれたゾロのよりも更に太く低い声が聞こえてくる。
「麦わらか?」
「よっ、ケムリン久しぶり」
ルフィは気安く話しているが、相手は海軍本部のお偉いさん、スモーカー総督である。
高い戦闘能力と部下たちの人望のある有能な男だったが、その一本気な性格が災いして長いこと辺境の支部に追いやられていた。
だが新たな中心人物となった海軍元帥は目先に惑わされずその人間の本来のものを見ることのできる男で、
彼に見込まれてようやくスモーカーもここに復帰してきたと言うわけだ。
ルフィたちとはローグタウン近海で大佐をしていた頃からの長い「付き合い」になる。
敵同士ではあるが互いにその力を認め合いもすれば多少は愛着もあるわけで、
だからルフィは彼をその能力に準えて未だにケムリンと呼ぶし、彼もルフィにもう帽子がないことを知りながら麦わらと呼ぶ。
「いよいよお前も最後だな、海賊王」
「さーて、どうかな?まだわかんねえぞ」
「今頃何の用だ?」
「今からそっちの方へ一般人の船が通る。ちゃんと見逃がせよ」
「「元」海賊の一般人か?・・甘いな麦わら」
「そんなの追いかけてる暇があるかよ。こっちには海賊王と大剣豪が残ってるんだぜ」
「あわせて50億ベリーだ」
ゾロが横から口を挟んでくっくと笑う。
「その声はロロノアか?・・・馬鹿め、また額が上がったんだよ、お前らは2人で80億ベリーだ」
へえーとルフィが感心した声を上げ、ゾロを見やれば彼もまたそれに唇の端だけでにやりと笑って返す。
「まあいい、海軍は海賊以外にゃ興味がねぇ、部下どもも同じだ。お前らはとにかく首を洗って待っていろ」
「サンキュ」
そしてぷつんと交信は切れた。
充分な内容だったようで、ルフィは満足気に送話器を置くと傍らのウソップに渡した。
「ルフィ・・・」
「ケムリンがああ言ったから大丈夫だ。安心して行け」
ウソップもともに長い航海をしてきた古馴染みの仲間だ。
ここに残ると言い置いたルフィとゾロへの思いは計り知れないほどある。
後ろ髪を引かれる思いで行くに行けない。
だからルフィは笑う。大丈夫だ、と告げて。
「必ずまた会いに行く。そんときゃちゃんとついて来いよ、ウソップ」
「待ってるぜ、ルフィ、ゾロ」
「ああ」
図らずも二重唱となった答えはウソップの迷いを吹っ切った。
彼もまた電伝虫を手に、ナミと同じくドアの向こうに消えた。