今年の冬は暖冬だったはずだ。
秋頃のTVも新聞もはっきりそう繰り返していたのを覚えている。
だのに。
ひゅうとうなりを上げて耳元を吹きすぎる風の冷たさにゾロは思わず首をすくめる。
ここ数年来、地球温暖化だの暖冬だのといった単語が巷をにぎわせていたが、実際蓋を開けてみれば今年の冬は「歴史的寒波襲来」という、
タイトルを見ただけでぞっとするような話題のオンパレードだ。
記録的な平均最低気温、記録的な積雪量。
昔に比べれば地球はずっと暖かくなっているのだろうが、寒いものは寒い。
1月もすでに半ば過ぎ、年末の忙しなさから開放された町はどこか落ち着いた感がある。
いつもと同じ大学からの帰り道、顔を埋めた上着の中から日暮れた町を見回せば、
電飾で飾られたショーウインドウや街路樹もほんの半月前までの喧騒が嘘のように穏やかに光っているが、
今はそんなことはどうでもよかった。
ちっと舌打ちをしながら、ゾロは上着の襟をしっかりと立てた。
あまり認めたくないが、ゾロは人一倍寒がりだ。
人間にとって皮下脂肪は体の熱を外に逃がさない役目があるそうだ。
日々の鍛錬の成果溢れる体脂肪のほとんどない筋肉質な体が災いしているのかどうか、
とにかくゾロはこんな冬の寒さにめちゃくちゃ弱い。
厚手の上着にしっかり身を包み、寒風に首をすくめる姿を目にした友人たちは皆、
子供のときから剣道で鍛えてるくせにと不思議そうな顔をする。
確かに道場での稽古は真冬だろうが薄い胴着に裸足、もちろん暖房なんてものもない。
だが道場では根本から気構えが違うのだ。
もちろん体に感じる温度は変わらないが、竹刀を手にした瞬間から余計な感覚は一切遮断される。
毛細血管の隅々、筋繊維の一本一本までにびしりと筋が通り、
ある種の酩酊感を伴って生み出される心地よいまでの緊張感がゾロをしっかりと包み込んでくれるのだった。
だが今いるここは生憎と真冬の風が吹きすさぶ往来のど真ん中。道場ではない。
竹刀をもってない自分は、どうせただの寒がりな人間だ。
それが悪いか馬鹿野郎、と天気相手に半ば八つ当たり気味の怒りを覚えながらゾロは足を速めた。
早く帰って風呂でも酒でも炬燵でもいい。とにかく冷え切った体を温めたくてたまらなかった。
気が急いていたせいか、後で思い返しても不思議なのだが、その時ゾロは何故かいつもより一本手前の路地を曲がっていた。
方向音痴には定評あるが、さすがに大学入学以来数え切れないほど往復している通学路を間違えはしないし、
急ぐからと近道をする気も皆無だった。
それは本当に無意識の行動だったのだ。
おかしいと気付いたのは角を曲がってしばらくしてからだ。
入り込んだ細い路地裏を進むうちに、ようやく自分のいる場所を疑問に思い始める。
見慣れた商店街はいつの間にかその気配を感じないほど遠くなっており、
しまった、また迷ったかと苦々しい思いで辺りを見回せば、
一応ここも都会の街中であるはずなのに、街灯はまばらでひどく暗かった。
そんな中に一つ、遠くでぼうと微かな明かりが揺れているのが見えた。
その醸し出す温かさにほっとして、怪しいと疑うこともなくゾロは引き寄せられるようにそれに向かって歩き出した。
明かりは一軒の店の前に灯った看板だった。
それだけがあたりの闇の中に唯一煌々と明るく光っている。
足を止めて見上げた店は、何の装飾もない地味な構えなのにどこか懐かしさを思わせて心が和んだ。
外れた長期予報、訪れた寒さにわけもなく苛ついていたこと、
さっき通りで自分たちからぶつかっておいて謝りもせずさっさと行き過ぎていった派手な身なりの高校生たち、
そんなつまらないことにささくれだった心に満ちていた負の感情が全て消えるようだ。
看板の文字は外国語だろうか、どちらにしろひどくかすれていて読めそうにない。
扉に手をかけてガタガタと揺すってみたが動かなかった。今日は閉まっているのだろう。
前はここから入れたのに…何気なくそう思った自分に、ゾロははっとした。
自分はこの店を知っている。
そう、昔、たった一度だけだが確かにゾロはこの店に来たことがあるのだ。
いま思い出さなくてはいけない気がして、ゾロは必死に記憶を手繰った。
あれはまだ小学校に入る前、やはりこんな寒い季節だったか。
道場の師匠の娘でもあった幼馴染とお使いに行かされたその帰り、道に迷ってしまった。
途方にくれながら二人で延々歩き続け、数え切れないほどいくつも路地を曲がって、気が付けばこの店の前にいた。
迷ったけれどあまりに疲れてもう一歩も歩けなかったので、恐る恐る扉を開けてみれば、
ふわりと暖かな空気が漏れ出して全身を包んでくれた。
その優しさに泣きたくなったのを思い出す。
部屋は真ん中に大きなストーブがあって、壁はどこも一面天使や悪魔や不思議な動物たちを描いた柔らかい色使いの絵本で埋まっていた。
その本の山の向こうから、ようどうした?と明るく声をかけてきたのがこの店の主人…火のように赤い髪がまぶしかった。
椅子を勧められて、ストーブにあたりながら理由を話して、温かな飲み物をもらった。
赤髪の主人はそうかそうかといいながら陽気に笑い、大丈夫だからなと頭を撫でてくれた。
そこでゾロの記憶は途切れている。
気付いたときは家の近くの見慣れた道に立っていた。
年上でしっかり者の幼馴染も、同じようにきょとんとしていたので夢ではないはずだが、
けれど翌日いくら2人で探しても再びここへ来ることはできなかったのだ。
日が経つうちに記憶はあっという間に薄れていき、結局それきり彼女とこの店のことを話すことはなかった。
それきり思い出しもしなかったけれど、こうして時を経て、ゾロはまたここにたどり着いた。
何故再びこの店は自分の前に現れたのだろうと店の扉に触れながらゾロは考える。
不思議な店、謎めいた赤髪の主人。そしてあのとき、赤髪の傍で楽しそうに笑っていた誰か…。
…だがいくら頭を振っても記憶はそれ以上鮮明にはならなかった。
もどかしい思いを抱えていたゾロだったが、ふいに足下に押し付けられたふわりとした感触に思考を中断された。
見下ろせば、茶色の毛並みの子猫がにゃぁと鳴いて身を摺り寄せている。
「驚かすなよ」
寒いのだろうかふるふると震えるその小さな体を抱き寄せようと手を伸ばしたが、
子猫はするりとゾロの手から逃れると身を翻して暗がりへと姿を走り去ってしまった。
「あ、おい」
恐らく野良猫だから放っておいてもよかったのだろうが、
この寒空に震えている小さな命を放り出していくのも気が引けて、ゾロは急いで店の裏手へと回りこんで追いかけた。