ゾロは滅多なことでは物事に動じない人間だった。どんな自体にも冷静に対処できるのが密かな誇りでもあった。
しかし、こんな予想もつかない事態をどうすればいいのか。
さすがに立ち直るのにしばしの時間を要したが、それでもどうにか状況を飲み込んでゾロはルフィの隣に腰を下した。
「なんだ、これは…」
「えっと…オレの羽だ…」
一応確認の意味でか、ルフィはばさばさと翼を動かしてみせた。
その意志で動かせるのだから確かにルフィに「生えて」いるものらしい。
「おまえ…何者だ?」
「オレか…?オレは悪魔…」
最後の言葉はぼそぼそと消え入るようだったが、ちゃんとゾロの耳には届き、充分に仰天させてもらった。
「は!?」
「せっかく姿変えてたのにばれちまうなんて、ゾロってばすげぇなぁ」
つくづく感心したようなルフィの言葉も今のゾロには届かなかった。
当たり前だ。
まずはルフィが悪魔だと名乗ったことを、呆然としている脳にしっかり言い聞かせなくてはならない。
「正体を口にされると魔法が解けちゃうんだ。
悪魔ってだけじゃ大丈夫だったんだけど、まさか『悪魔の息子』までちゃんと言い当てるヤツがいるとは思わなかったぞ」
あまりにも突拍子もない話だが、ルフィは嘘は言っていないようだ。
驚いたが信じられないわけではない。あっさりとそう受け入れられるのは、
一目見たときからその無垢な笑顔やふわりと気配を感じさせない立ち居振る舞いが、
どこか異世界の存在のような気がしてならなかったからだ。
ゾロはそっとルフィの大きな翼に触れてみる。
初めて触れた悪魔の翼は、ふわふわともばさばさとも違う形容し難い不思議な感触だ。
そしてよく見ればルフィのそれは漆黒ではなくて、あちこちがうっすらと色が抜けて微妙なまだら模様になっていた。
「オレ、悪魔ってもまともなほうじゃないみたいでさ。魔法も下手だし羽にもちょこちょこ白いのが混じってるの。
できそこないだってよく笑われてる」
悪魔と言えば、地獄の使い。人間と契約して願いを叶え、代わりに魂を抜き取る。
ゾロの知識はそんなところだ。
髪や瞳、そして今目の前にある翼を見ていると外見的には頷けなくもないが、
この数時間ゾロが見てきたルフィはそんな恐ろしくも残酷な存在とはあまりにも程遠い。いっそ「天使」の方が近いのではないかとも思う。
「悪魔って、おまえも人の魂を食ったりするのか?」
「ゾロ…」
ルフィは悲しそうな顔をして首をふった。
「悪魔はそんなこと絶対しねえ。肉体を失った人間の魂は天上界に運ばれて、
また生まれ変わる日のためにゆっくり休むんだ。それを運ぶのがオレたちの仕事だけど、大事な魂なんだから絶対に食ったりしないぞ」
「ああ、悪かった…」
ルフィが泣き出しそうな表情を浮かべたので、ゾロは素直に詫びた。
そうだ、ルフィが人間の魂など食うはずがない。
「おまえが普通のメシ食うってことはよーくわかったからな」
「うるせぇ…」
こつんと額を弾かれ、ぐしぐしと目元を擦りながらルフィが笑った。
ルフィがゾロには聞き取れないような呪文を呟く。
ばさりと大きな翼が畳まれてあっという間に背に吸い込まれていった。
まだ耳が尖っているのと犬歯が普通より鋭いことを除けば、全く人間と変わりない。
とにかくルフィが悪魔で、ただし人間が思っているほど恐ろしいものではないということはわかった。
しかしわからないことだらけなのでゾロは一つずつ尋ねてみる。
「で、おまえはなんだってあんなとこにいたんだ?」
「オレたち悪魔と天使はみんな天上界で暮らしてるんだ」
とルフィが上を指さす。どうやら天上界は本当に天の上に存在しているらしい。
「ちょっと待て、天使と一緒に暮らしているのか」
「当たり前だろ?」
何を今さらという顔でルフィが首を傾げる。
「だって、悪魔と天使なんだろ?」
ああそうかとゾロの疑問を感じ取ったルフィが頷いた。
「うん。昔は天使は天界、悪魔は魔界にしか住めないから行き来もほとんどなかったらしい。
だから仲もそんなによくなかった。
でも魔王だったシャンクスが天上界を統一したんだ。
信頼できる仲間とその魔力を総動員して、天界と魔界を融合させた。
オレは生まれてなかったからよく知らないんだけど、とにかくすごいことなんだって。
その後シャンクスは統一された天上界の長になったんだけど、魔力のほとんどを失くしちまった。
でも後を継ぐやつが生まれてくるまでって頑張ってる。
まあそんなわけで、今は天使も悪魔も一緒の世界でそれなりに仲良く暮らしてるんだ」
すごいことであるらしいが、そんなことを聞かされてもゾロはただへぇと頷くしかない。
「でもオレたちが地上に降りられるのは仕事の時だけなんだ」
「仕事?」
「『お迎え』ってやつだよ」
ああと思う。死んだ人間の魂を迎えに来るということか。
「魂が迷ってどっかいかないように、天使と悪魔がペアになってちゃんと連れて行くんだ」
「そうか…」
ならば安心だとゾロは思う。かつて亡くした幼馴染もちゃんとルフィたちが穏やかな世界に連れて行ってくれたのだろう。
「でも…仕事以外で降りるのは基本的に禁じられている。シャンクスが許してくれればいいんだけど、
オレがいくら頼んでもちっとも聞いてくれないんだ…。くそぉ、シャンクスってば!」
何かを思い出したらしく急に怒り出したルフィを、おいおいとゾロは宥める。
シャンクスはルフィのいる世界の長だというのに、その対等な物言いは心配になるほどだ。そう言ったら
「いいんだ、シャンクスはオレの親父だから…ってもホントの親じゃないけどな。
オレ、生まれたときから親がいないんだ。でもオレを見つけたそんときたまたま暇だったから、シャンクスが引き取ってくれたんだって」
おいおい。
ずいぶん暇な長もいるものだ。最もその言い分が本当ならばであるが。
「だから俺が地上に降りたのはこれがまだ3回め」
「でもおまえらって地上で仕事してんだろ?」
「うん…でも俺が仕事をしたのは…1度だけだからな」
小さく笑ってルフィがふっと目を逸らした。何か辛い記憶でもあるのだろうか、その笑顔はどこか寂しそうに見えた。
「それ以来シャンクスに止められてる。まだ魔力のコントロールも上手にできない半人前はおとなしくしてろってさ。
でも俺どうしても地上に降りたくて…今日満月なもんだから月の泉にこっそり行ってみたんだ、そしたら…」
「月の泉?」
「満月の日に天上界と地上をつなぐ月の道が現れるって言われてる天上界の重要秘密場所」
おいおい。秘密の場所にもぐりこむ。どこのガキだ、それは。
もうツッこむ気にもならなくなってきた。
「そこに入ればそのとき一番望むとこに連れてってくれるんだって」
「で、入ったのか」
「うん。気が付いたらあそこにいた」
「何を好き好んであんな何もないとこに落ちたんだかな、おまえは」
「だな…」
それであの時帰れないと俯いていたのかとゾロは納得する。
ちょっと待て。
ゾロはとんでもないことに気が付いた。
「ルフィ、おまえどうやって天上界に戻るつもりだ?」
「は?」
「その泉って帰り道はどこにあるんだ?」
「知らねえ」
ルフィの答えはあっけらかんとしたものだ。
「じゃあどうするんだよ」
「…どうしようか、ゾロ…」
「その目は止めろ」
帰り道のわからない悪魔。
もしかして自分はとんでもないものを拾ってきてしまったのではないだろうか。
そんな騒ぎを他所に、ミルクを飲み終えた子猫は温かなマットの上ですやすやと眠っていた。
「なあなあゾロ、こいつの名前チョッパーってのはどうだ?」
つんつんと起こさないように、それでも我慢しきれずにちょっかいをかけるルフィののんびりとした声が聞こえる。
「あ?…いいんじゃねえの」
ゾロは半ば投げやりに答えた。
このアパートで猫は飼えない。明日になったら引き取り先を探さなくてはと思う。
しかし悪魔は禁止されていないはずだ。幸か不幸かわからないけれど。
しばらく…ここに置くしかないのか?
この天然にすっとぼけた大食らいの綺麗な瞳をした「悪魔」を。
食いっぱぐれたことを思い出したのか、ぐうと鳴いた腹に続いてゾロは大きな大きな溜息をついた。